荒れ野
今日の個所の初め(30節)に、「荒れ野」という言葉があります。日本人はイメージしにくいのですが、草木がなく、岩も多く、荒廃した土地のことです。そして今日の聖書個所の最後(38節)、そこにも「荒れ野」という言葉がありました。「荒れ野」という言葉に区切られたところを、今日は、読んでいるのです。
その荒れ野にいたのが、あの出エジプトの指導者モーセで、モーセがちょうど40歳から80歳になるまでの40年間、その荒れ野で羊飼いだったのです。ところが、そこで、主(神)の声を聞いたというのです。こんなところで? と思うところ、自分の生活の場で、モーセは神の語りかけた言葉を聞くのです。その時は、一人でした。モーセは、最初は一人でいるところで 神の声を聞きました。
しかし、後ろのほうの「荒れ野」は、80歳からの40年間というときであり、その場所を指しています。80歳になったときに、モーセは神の声を聞いて、神に押し出され、エジプトにのぼって、そこで奴隷であった人々を導き出した。エジプトから導き出せば、そこは荒れ野だったのです。そこに「集会」とか「私たち」という言葉があります。同じ荒れ野であっても、今度は一人ではない。そこに「私たち」という、人の集まり「集会」があります。38節「この人(モーセ)が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」 - 荒れ野で、導き出した人たちと「集会」を作り、モーセは、自ら聞いた神の言葉を、その「集会」で民衆に伝えたのです。
初めの40年も、その後の40年も、共に「荒れ野」でした。しかし最初は一人で、後には集会と共に、神の言葉を聞いた、というのです。「荒れ野」に響く声、神の言葉があった、というのが、今日の個所になります。
さがみ野教会
さがみ野教会は、40年前「栗原伝道所」として開設されました。教会にふさわしい場所を探して、濵崎先生はずいぶん苦労されたのですが、家探しをしていた時、町の中できょろきょろしていたからでしょうか。そこにいた子どもたちが言ったそうです。「変なおじさん。」先生は思ったそうです。人を見てそんなふうにしか思えない子どもたちの心に、主イエスさまを伝えなければ、と。
やがて、借りた家に、たくさん子どもが集まるようになりました。4畳半と6畳をつなげ、ひと間にした部屋に、60人もの子どもたちが溢れかえったのです。3年目に、濵崎先生から私が引き継ぐことになり、1、2年経ったある日、帰宅すると、開けっ放しの玄関から学校帰りの子どもたちが上り込んで、ラーメンを作って食べていた。教会の前の道は通学路でしたから、よく子どもが立ち寄るのですが、さすがに驚きました。道路から、毎日子どもたちの会話が聞こえてくる。「誰んちのパパとママ、別れたんだってさ。」…教会のあった場所は借家が並んでいる下町みたいでしたから、折しも裏の家で夫婦喧嘩の声が筒抜けに聞こえてくるわけです。ある日、やはり学校の帰り道、教会に子どもが飛び込んでくる。「口避け女」ってホントにいるの?怖いよ~」そんな具合でした。
今から17年くらい前、そういう子どもたちの一人が、新聞に出ていました。写真が載っていましたから、見て、すぐに分かりました。内容は、性的暴力に遭った人たちのカウンセリングをしているという、そういう事情を伝える記事でした。後日、講演にこの人をお呼びした時、ご自身もまた、そういう体験をされた当事者だと話されました。新聞には、歪んだ時計の絵が写っていました。講演の時、これは私が描いた絵です、と。被害を受けて後、治療の過程で、歪んだ時計の絵を描かれたのです。そして相当な時間と苦しみの後にようやく立ち直り、回復した今は、カウンセラーとして働いている、というものでした。
またある時は、教会を訪ねてこられた女性がいました。手にポリタンクを持っている。「お水をいただけますか。」「いいですが、どうしたのですか?」と訊くと、「占いをしてもらったら、神社とか、そういうところ、どこでもいいから行って、水をもらって飲みなさい」と言われたとのこと。
私は、思いました。この人は、体ではなく、心が、渇いている。どういう渇きかというと、占いをしてもらわなくてはならないくらい、何かに苦しんでいる。悲しんでいる。困っている。途方に暮れている。そういう渇きがある、と思ったのです。けれども、それを言わずに、ただ水道水を求めているのです。本当は「苦しい」と言わなければいけないときに、水道水しか求められなかった… 「水道の水ですよ」と断わりながら、タンクを満タンにして差し上げました。そして、とっさにコピーを1枚。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」「これはイエス・キリストの言葉です。これを読んで、よろしければまたおいでください」と、伝えました。
ああ、これが栗原伝道所、さがみ野教会が置かれた場所だったのかと改めて思います。「荒れ野」という言葉が迫って来るのです。しかしそこに教会が置かれて、そこに40年間、神の言葉が語られ、そこに確かに主イエスさまが伝えられてきたのです。
「荒れ野」とは、私たちに翻訳すれば、子どもの問題、家庭の問題、社会の問題、そして様々な悲しみ、不安、恐れ、怒り、悩みがある、私たちの生活の場のことなのです。そこに40年間、さがみ野教会を通して神の言葉が響いたのです。牧師の語る説教だけのことを言っているのではありません。皆さんの信仰の証しを通しても、神の言葉が響き続けてきたのです。
あなたをエジプトに遣わす
聖書に戻りますが、ここにモーセのことが話されています。「40年たったとき」。モーセが荒れ野で羊飼いをして40年たったとき、80歳の時に、主なる神がモーセに現れ、こう言われたのです。「エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降ってきた。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。」 - エジプトで奴隷生活をしている人のために、彼らを苦しみから救い出し、エジプトの支配から解放するために、そのとき神が選んだのが、モーセという人だったのです。老いて、なお光(召命の声)あり。神さまは、80歳のモーセを人のために、祈りの人として、選ばれたのです。神さまの前には定年など、ないのです。
戻りますが、羊飼いをしていたモーセの前で、柴が燃えているのですが炎は燃え尽きず、不思議に思い近づいてみると、神の声が聞こえたのです。「履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる土地である。」 - 「あなたの立っているところ」そこは、モーセの生きた、生活の場所です。しかし、そここそが「聖なる土地」、神がおられる場所、神が、語る場所だったのです。そして最初は尻込みしていたモーセですが、ついに神にとらえられ、立てられ、遣わされていったのが、モーセの人生第三の時期となる、80歳からの40年間です。そこもまた、依然として荒れ野に変わりありませんでしたが、その40年間、モーセは神の言葉を人々に取り継ぎ、証しし、力ある働きを続け、「人々」、神の民の「集会」と共に生きたのです。
36節「この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。」
38節「この人(モーセ)が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」
自分の手を引っ込める時
人生三分の二は過ぎた。残りの三分の一をどう生きようか。そのように人生の最期の日々を考えることを、最近は「終活」と言います。確かに人生の残り三分の一、その辺りの年齢の人が「終活」を考えるのはまだ少し早いかもしれません。しかし80歳前後の方は、どのように人生を終おうかと「終活」を考えるでしょう。そういう方にとって、今日のところは、興味深い記事になるのではないでしょうか。
この第三の時期に、モーセは人々を奴隷という苦しみから解放したのです。結果、40年という思いがけない長さと、さらには「荒れ野」という、課題の多い旅に生きることになりました。しかし、その荒れ野で、モーセは神の言葉を証しする役割を担うことになったのです。
35節で「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」と言います。「神は…お遣わしになった」 つまり、ここで、40年の荒れ野での働きは、(モーセが思い立って勝手にしたのではなく)神が、モーセを必要として、送り出した働きだった、ということが大事だと思うのです。
40年前はどうだったでしょうか。少し前の23節を見ます。「思い立ち」とあります。モーセ40歳のときは、思い立ったことを実行していました。「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしていることを、彼らが理解してくれると思いました。」勝手に思い立ったことですから、その時は、殺人もしてしまったのですが、勝手に思い立ったことでも、しかしモーセにしてみれば周りが「理解してくれる」と思った、というのです。案の定、人々は、「『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだ」のです。モーセは、人に受け入れてもらえない自己中心的な善意、正義観を振り回していた。モーセ40歳の時のことですが、まだまだ若い、としか言えません。そして私たちは、モーセはエジプトの王子の立場にあったということをここで思い出すのですが、思い立ったことを実行した結果、自らのその地位を失い、荒れ野に逃れて、羊飼いになったのでした。
それから40年。80歳になったモーセは、神の声が聞こえる人になっていたのです。あの柴が燃えている場面で、「主の声が聞こえ」たのです(31節)。このモーセに対して言っています。「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。」(35節)
「神は…お遣わしになった」 自分で、自分が、自分は…こうしたい、と主語を自分にしていたモーセでしたが、だから、遣りたいことをやっていた40歳のときでしたが、しかし80歳になった今、神の声を聞き分ける人に変わった、のです。そのモーセを、神が必要とし、荒れ野にあって、困難と苦しみの中にある人々の指導者として、この人を遣わしたのです。そのようなモーセの姿を通して、人々は、神に仕えるとは、神の言葉に聞くとは、どういうことかを学んだと思います。
モーセを通して分かることは、私たちは主語を「私」としてきた、ということです。神が、お遣わしになるときに、依然、「思い立った」としか言えない。自分の考えで、何とかしようとしてしまうのです。そして自分がしたこと、することを、皆、理解してくれると勝手に思い、それを押しうけたりするなら、周りにとって、こんな迷惑な話はないのです。
はたして教会のわざは、どうなのだろうかと思う時、「神(が)…お遣わしになったのです。」私たちはそれぞれ「思い立つ」ような人生を歩んできたと思います。しかし、その人生の歩みの中で、ある日、「履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる土地である。」と神が言われたのです。なお依然として、自分の履物をはいている、自分を主語としている人間に、神は語りかけた。「履物を脱げ。」そこから神の物語が始まったのではなかったでしょうか。そこから私たちはキリスト者として、さがみ野教会として召し出して、この荒れ野へと送り出されたのです。
イエス・キリストを語る
ところで今日の後半、「このモーセが」という言葉と「この人が」という言葉とが、面白いリズムで、繰り返されていることに、皆さん、気づかれたでしょうか。「このモーセを」から始まって、2行後に「この人が」と続きます。また2行後に「このモーセが」 3行後に「この人が」と。特に、その38節では私たちの先祖の話かと思って聞いていると、「この人が…命の言葉を受け、私たちに伝えてくれたのです」と。
「この人」とは、モーセのことだ、ということは分かりますが、神が選び、引き出されたモーセを、「この人」と2回も置き換えている。そして「この人が…命の言葉を受け、私たちに伝えてくれたのです。」昔の話かと思っていたら、突然、「この人が」「私たちに」伝えてくれたのだと。ここにいる私たちに、です。命の言葉を受け、…伝えてくれた。
もう一つ、ついでに言えば、「集会」これは聖書のほかの場所で「教会」と訳されている字なのです。ですから、「この人」という人は、荒れ野の「教会」で、命の言葉を、私たちに、伝えてくれた。荒れ野にある教会、つまり試練がある、痛みもある、課題もある荒れ野の「教会」で、しかし「この人」は、命の言葉を語ってくれたのです。
もうお分かりでしょうか。ここで大事なのは、モーセのことを話しながら、「この人」と何度も置き換えて、教会で命の言葉を語ってくれた方、イエス・キリストを指して話している、ということなのです。モーセがしたことは、今、「この人」イエス・キリストのしたことに、つながったのだ、と言っているのです。イエス・キリストとは一言も言っていませんが、「この人」と言っているだけですが、ここは、モーセのような預言者、イエス・キリストと、そして、荒れ野にある集会、教会のことを言っているのです。36節「この人が…40年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出し」たのだ。38節「この人が荒れ野の集会(教会)において、…(少し飛ばします)…命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」イエス・キリストこそ、40年間、教会の主であったし、だから命の言葉を私たちに伝えてくれたのです。私たちはこの40年、荒れ野の中にあって、しかし、この方によって神の言葉が取り次がれ、「集会(教会)」を形作ってきたのだと。ここに、さがみ野教会が重なってくるのです。
荒れ野の教会
私が初めて行った教会は、希望ヶ丘教会です。当時、希望ヶ丘教会を牧会されていた竹入悦夫牧師から、私は洗礼を受けました。
ところで、その父君である竹入 高(たかし)牧師は京都で牧会されていたのですが、戦時中、特高(特別高等警察。警察とは別組織で、拷問を日常茶飯事のように繰り返していた、秘密警察)に検挙されました。同時に、教会は強制的に解散させられたのです。竹入
高牧師自身は、1年3カ月に及ぶ獄中生活を強いられ、弱った体に感染したとみられる結核が悪化し、ある日、突然保釈されたのですが、保釈後、すぐに命を落としました。かかわりを恐れてでしょう、その頃、京都では葬儀を引き受けてくれる牧師は一人もいなかったそうです。当時、牧師100人を超える検挙者の内、75人が起訴され、投獄された人の内、8人が殉教しました。竹入牧師はその一人です。
教会の信仰のために「殉教」の死を遂げた竹入 高牧師のご子息は、それでも父君の信仰を受け継ぎ、父と同じ牧師となり、そして希望ヶ丘で牧会している時に、私に洗礼を授けたのです。従って私は、殉教者の信仰的な「孫」に当たるのです。そういう意味では、私には殉教者の血が流れている。その私もやがて牧師になり、私から洗礼を受けた人がいますが、すると、その人は、殉教者の「ひ孫」です。ですから、私のキリスト者としての存在自体が、そして、牧師としての存在、私が牧会したさがみ野教会という存在そのものが、かつての日本の、そのような「荒れ野」を現しているのです。いえ、その荒れ野に生きた信仰をこそ、現しているのです。竹入
高牧師が牧会された教会は、今、山科の地にある京都復興教会として荒れ野の教会をとその信仰を今に証ししていますが、それは、別にひとり京都復興教会だけではありません。さがみ野教会も、また、殉教者の血の上に、その信仰の証の上に立って、信仰のバトンを受け継ぎ、荒れ野に生きる教会の姿を、ここに希望があると、この時代、この地域に、確かに証ししているのです。
さがみ野教会のこの場所には、戦争末期、高座海軍工廠という広大な工場があり、ここで雷電という戦闘機を作っていました。教会は、その工場の敷地内にあります。戦争のための工場。まさに、ここに「荒れ野」があったのです。桜並木の道路は、戦闘機の試験飛行させていた40メートルの滑走路でした。さがみ野教会は、かつて戦闘機を飛ばした滑走路の横に(もしくは真上に)位置します。ここから、今は、イエス・キリストの福音を力強く証ししているのです。
「履物を脱げ。あなたの立っているところは聖なる土地である。」この召命によって、皆さんはこの40年、多くの神のドラマが生まれる「荒れ野の教会」を証ししてきました。これからも、さがみ野教会はこの時代の荒れ野にあって、神の言葉、イエス・キリストを証しする「荒れ野の教会」なのです。
皆さんの上に、祝福がありますように。