2016年12月4日日曜日

ルカによる福音書第1章26から38節「神の『おめでとう』は揺るがない」

クリスマスにはいろいろな讃美歌が溢れています。クリスマスの出来事を歌う讃美歌の中でも特に美しいものの一つは、アヴェ・マリアでしょう。「おめでとう、マリア、恵まれた方。神があなたと共におられます。」そう歌い始めます。今朝の聖書に登場する天使の言葉です。私たちプロテスタント教会ではマリアに祈ったり、果てにはマリアを神格化したりするようなことはしません。しかし、彼女はすばらしい信仰者です。ナザレという田舎に住んでいた、平凡な少女でした。天使が平凡な一人の女のところに来て告げた祝福の挨拶は、時代も場所も越えて、私たちにも向けられた祝福であると信じます。私たちも同じように祝福されています。「神があなたと共におられます」と私たちにも宣言されています。マリアの胎に宿ったキリストが、このクリスマスに、私たちにも出会おうとされているからです。皆さんは、この一週間をどのような思いで過ごしてこられたでしょうか。「おめでとう」という言葉からは遠い現実の中に生きてきた人もきっといることでしょう。わたしは、この一週間、家族のために心を砕く人と会ってきました。ある人は家族の死を迎えるための備えを少しずつ始め、またある人は病気に倒れた家族に付き添って手術室の前にいました。そういう時にも、マリアに向けられた挨拶は、なお意味を持つのでしょうか?天使はマリアに「恵まれた方」と言いましたが、この字は、「もうすでに神の恵みを受けて、今生きている人」というニュアンスの表現になっています。私たちには見えないけれど、私たちには「どうして、そのようなことがありえましょう」としか言いようがなくても、神の恵みはもうあなたに与えられていると天使は言うのです。どうして、そのようなことが言えるのでしょう。神さまは私たちの現実を無視なさっているのでしょうか。「おめでとう」という言葉は、直訳すると「喜べ」という表現です。喜びうるしっかりとした根拠も無く「喜べ」なんて命令されるとしたら、極めて非人間的な仕打ちです。世の中にはそういう命令が溢れているように思います。大して面白くもないバラエティに笑って時間を過ごした後の空しさといったらどうでしょう。でも、そうでもしないと晴らせない憂さに囲まれて私たちは生きています。マリアが生きた時代のユダヤは、喜びの水も涸れ果てたというべきでした。ユダヤはローマ帝国の属国でしたし、貧しかったのです。悲しむ者、苦しむ者に喜びがあるというならば、その根拠をハッキリさせなければなりません。天使はマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」神があなたと共におられる。だから喜んでくれ、と言うのです。クリスマスの讃美歌の中には「マグニフィカート」というものもあります。マリアの讃歌とも呼ばれます。マルティン・ルターがこの名の小さな書物を書いています。私たちは誰でも富や名誉や力や良い生活を求める。誰も貧乏や恥辱や苦難、悲惨なんて求めない。悲惨の中に喘ぐ者を求めるのは、ただ神だけだ。神は私たちに死を負わせ、計り知ることのできない悩みと困窮に添えて、十字架のキリストを下さった。ルターはそう言います。そうです。天使の「おめでとう」は十字架のキリストを指さしているのです。私たちの悲しみや苦しみにも共におられるキリストを。私たちの悲しみを生み出す罪からあなたを救うキリストが共にいて下さる。これがクリスマスの福音です。

2024年6月17日の聖句

新しい歌を主に歌え。まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)  私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)   私たちの主を賛美する新しい歌は、主の奇しき業から始まります。主がなしてくださった御業に応えて、私た...