クリスマスにはいろいろな讃美歌が溢れています。クリスマスの出来事を歌う讃美歌の中でも特に美しいものの一つは、アヴェ・マリアでしょう。「おめでとう、マリア、恵まれた方。神があなたと共におられます。」そう歌い始めます。今朝の聖書に登場する天使の言葉です。私たちプロテスタント教会ではマリアに祈ったり、果てにはマリアを神格化したりするようなことはしません。しかし、彼女はすばらしい信仰者です。ナザレという田舎に住んでいた、平凡な少女でした。天使が平凡な一人の女のところに来て告げた祝福の挨拶は、時代も場所も越えて、私たちにも向けられた祝福であると信じます。私たちも同じように祝福されています。「神があなたと共におられます」と私たちにも宣言されています。マリアの胎に宿ったキリストが、このクリスマスに、私たちにも出会おうとされているからです。皆さんは、この一週間をどのような思いで過ごしてこられたでしょうか。「おめでとう」という言葉からは遠い現実の中に生きてきた人もきっといることでしょう。わたしは、この一週間、家族のために心を砕く人と会ってきました。ある人は家族の死を迎えるための備えを少しずつ始め、またある人は病気に倒れた家族に付き添って手術室の前にいました。そういう時にも、マリアに向けられた挨拶は、なお意味を持つのでしょうか?天使はマリアに「恵まれた方」と言いましたが、この字は、「もうすでに神の恵みを受けて、今生きている人」というニュアンスの表現になっています。私たちには見えないけれど、私たちには「どうして、そのようなことがありえましょう」としか言いようがなくても、神の恵みはもうあなたに与えられていると天使は言うのです。どうして、そのようなことが言えるのでしょう。神さまは私たちの現実を無視なさっているのでしょうか。「おめでとう」という言葉は、直訳すると「喜べ」という表現です。喜びうるしっかりとした根拠も無く「喜べ」なんて命令されるとしたら、極めて非人間的な仕打ちです。世の中にはそういう命令が溢れているように思います。大して面白くもないバラエティに笑って時間を過ごした後の空しさといったらどうでしょう。でも、そうでもしないと晴らせない憂さに囲まれて私たちは生きています。マリアが生きた時代のユダヤは、喜びの水も涸れ果てたというべきでした。ユダヤはローマ帝国の属国でしたし、貧しかったのです。悲しむ者、苦しむ者に喜びがあるというならば、その根拠をハッキリさせなければなりません。天使はマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」神があなたと共におられる。だから喜んでくれ、と言うのです。クリスマスの讃美歌の中には「マグニフィカート」というものもあります。マリアの讃歌とも呼ばれます。マルティン・ルターがこの名の小さな書物を書いています。私たちは誰でも富や名誉や力や良い生活を求める。誰も貧乏や恥辱や苦難、悲惨なんて求めない。悲惨の中に喘ぐ者を求めるのは、ただ神だけだ。神は私たちに死を負わせ、計り知ることのできない悩みと困窮に添えて、十字架のキリストを下さった。ルターはそう言います。そうです。天使の「おめでとう」は十字架のキリストを指さしているのです。私たちの悲しみや苦しみにも共におられるキリストを。私たちの悲しみを生み出す罪からあなたを救うキリストが共にいて下さる。これがクリスマスの福音です。
2025年9月4日の聖句
あなたを助ける父の神により、あなたを恵まれる全能者による。(創世記49:25) 福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16) 今日の旧約の御言葉は、25節全体を含めて見ると聖書協会共同訳ではこのように翻訳されています。「お前を助ける父の神から、お前を祝福す...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...