2017年12月31日日曜日
テモテへの手紙二2:8〜13「思い起こせ、キリストの真実を」
一年の終わりの日曜日を迎えました。今日で今年は終わります。どのような思いでこの一年を過ごしてこられたのでしょうか。新しい望みを抱いている人もいるかもしれません。将来に不安しか見えないという人もいるかもしれません。前を無口空を失うこともあるでしょう。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」御言葉は私たちにそのように告げます。思い起こしなさい。文法の言葉では命令法現在形という形をしています。継続した動作を命じる言い回しです。一回だけ思い出してみるというのでなく、いつでも思い起こしていなさいという意味合いです。私たちの苦しみの日々、悲しみの日々の中であっても、いやそういうときにこそ、いつでもキリストを思い起こしていなさいと命じるのです。これこそ、今日私たちに与えられている福音宣言。キリストを思い起こすときにこそ、私たちの望みが拓けるからです。なぜなら、この福音はキリストが死者の中から復活したという福音だからです。復活した主イエスは弟子たちのところへ来て、おっしゃいました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主イエスの御命令は、洗礼によって教会を建てあげよ、ということです。洗礼の原型は水の中に全身を沈めるというやり方でした。私たちの教会では頭の上に水を注ぎます。やり方は違っても、意味は同じです。水に沈むとき、私たちは一度死にます。しかし水に沈んだ者はもう一度そこから出てくる。新しい命に生まれるのです。教会は一度死んだ者たちの集団です。教会は、一度死なないと教会になりえないのです。古いわたしはもう死んだ。そうすると、私たちに襲う苦しみや悲しみの意味が変わってきます。テモテへの手紙はベテラン伝道者パウロが若手の同労テモテに宛てて書いた手紙です。どうやら牢獄の中で執筆されたようです。パウロにとってどんなに深い苦しみであったことか。鎖につながれています。忍耐を強いられます。この忍耐というのが以下に簡単なことではないのか、私たちもよく知っています。耐えられないのです。しかし、もう、私は一度死にました。今生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられる。その事実が、本当に実際的な力を私たちに与えるのです。ボンヘッファーが1944年12月31日に残したと考えられる「主のよき力に守られて」という詩が私は大好きで、この時期によく思い出します。死んだような私のところへ主が来てくださる。そこだけに望みと慰めがあります。同じ年のクリスマスに、エーベリングというボンヘッファーのもとで学んだこともある牧師がした説教も残されています。エーベリング牧師は言います。主イエスが生まれたのは、暗黒のようなこの世界だ、と。明らかに当時のドイツを聖書に重ねています。まさにこの暗黒の世界にキリストは来てくださった。そう、私たちのところにも、キリストは来ておられます。ボンヘッファーの詩は後に曲がつけられました。美しい歌です。苦き杯の中に希望を見ます。今朝の11-13節も2000年前の讃美歌と言われています。キリストの真実を歌う讃美です。私たちの誠実という徳のためでなく、ただ常に真実を貫く神であるからこそ、私たちを救ってくださるのです。 キリストの真実こそ、私たちの救いです。
2025年1月2日の聖句
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