2018年9月2日日曜日

コリントの信徒への手紙一2:10-16「神の深みを究めて」

 「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。」と今朝の聖書の御言葉は始まっています。「そのこと」と言っているのは、神の知恵、すなわちイエス・キリストが十字架にかかり、私たちを罪と死から救ってくださったことです。そのことを、神がご自身の霊、聖霊によって私たちに明らかに示してくださった。そのように言います。なんと輝かしく、宝のような言葉なのでしょう。その輝きに目がくらみます。なぜなら、私は全くそれに値しない者だからです。自分に幻滅することの繰り返しです。自分の愛のなさや優しくない自分。疲れて、自分勝手な本性が顔を覗かせる。ハイデルベルク信仰問答は、神を愛し、隣人を愛するようにという聖書の教えに背く自分は、悪くさかさまで、惨めだと言います。その通りです。愛をもって生きられない私の惨めさに気づく度に、本当に辛くなります。しかし、そんな私に、神さまご自身が知らせてくださいました。こんな私のためにイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった、と。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」と書かれているとおりです。
 それを知らせてくださったのは、神さまご自身の霊の働きだと言います。いくつかののことが言えると思います。まず、私が私のことをどんなに否定し、クリスチャンとして生きるのにはふさわしくないと否定したとしても、神が明らかに示してくださっている以上、私には自己否定の余地がないのです。神さまは私たちが自分で自分にバツをつけることをお喜びにはなりません。
 そして、神さまご自身の霊が示してくださっているのであるなら、それは私たち人間の願望の東映ではない、ということです。神さまなんて言っても、結局は人間の願望の東映にすぎない、人間がつくったものにすぎないと批判されることもあるかもしれません。しかし、聖書はそうではない、と主張します。私たちの願望が神をこしらえたのではなく、神が示してくださったのだ、と。
 どういうことか?12節に世の霊と神からの霊という言葉があります。私たちは、このいずれかによって生きています。世の霊は世にあるものを求めます。最近、いろいろなスポーツ指導者の問題がいくつも話題になりました。心身共なる向上を目指すべきスポーツ界の不祥事に世間の耳目が集まりました。しかし、そこで求められていたものは何でしょうか?立場、お金、権力、…、どう言い表すにしても、この世にあるものです。あの不祥事は私たちの社会の求めの縮図です。しかし神の霊が示すのは、十字架のキリストです。薄汚い罪人のためにへりくだり、磔にされて死んだ人のことです。それは、私たちの願望が造り上げようのない神さまのお姿ではないでしょうか。
 「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と言います。十字架のキリストの思いを頂いて、私たちが出会う人への愛を、聖霊はこの私にさえも与えてくださいます。

2024年12月23日の聖句

私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...