先々週、ファミリーサンデーの礼拝では24bから34節の12年間病気だった女の話を読みました。今朝はそれをサンドイッチのように挟み込んでいるヤイロの娘の話と合わせて、再び開いています。二人の女性が登場します。共通点がいくつかあります。何よりもまず、二人とも女性です。当時の社会では、殆ど物の数にも入らないような扱いを受けていました。先々週、わたしが子どもたちに話したのは、イエス様は12年間病気だったあの人と出会いたかったのだ、ということでした。ちゃんと向き合って、イエス様と出会い、神さまと出会う、それが彼女にとっての本当の救いだからです。それは、ヤイロの娘も同じでしょう。主イエスは、社会の中で軽んじられ、数に入れられていなかった二人の女性たちと出会いたいと望んでいてくださる方です。だから、わたしとも出会いたいと望んでいてくださる、と信じることができるのです。
もう一つは、12年間という年月です。病気の女性は、12年間苦しんできました。ヤイロの娘は12才で、最期の時を迎えようとしていました。12年間の病はあまりに長いですし、12年の生涯はあまりに短いです。彼女の父や色も、あの女性も、必死になりふり構わずに主イエスを求めました。救いを求めました。この祈りは、私たち自身の祈りではないでしょうか。23節にヤイロが娘のために「しきりに願った」と書いてあります。たくさんのことばを話したという字が使われています。私たちも愛する者のためであれば言葉を尽くして祈るし、自分自身のためにあの女のように必死に手を伸ばして主イエスを求めるのです。
歌舞伎町の裏にある教会の牧師、関野和寛先生の『すべての壁をぶっ壊せ!』という本を最近読みましたが、そこでノルウェー人のヨハンという牧師の話が紹介されていました。彼にはメアリーという美しい妻がいたが、病で先立たれてしまった。とても気落ちし、周りの牧師たちも悲しみ、神さまは本当におられるのかと語り合っていた。ところが、その後、ヨハンはエバという女性と再婚しました。気落ちしたヨハンを気にかけていたエバが家に見舞ったとき、雪崩に巻き込まれ、二人で家に閉じ込められてしまった。その時、彼らは互いが必要だと気づいた。友人たちは、絶望の中に神はいる、人は変われると語り合ったそうです。
教会は、ここに来れば病気が治るとか、死人が蘇生するとか言って伝道しません。私たちの願いが、必死に祈ってもその通りにならないこともあるし、その方が多いかも知れません。しかし、私たちは絶望の中でキリストと出会う。それこそが救いなのです。35節で娘の死の知らせを聞いたラザロはどんなに失望し、絶望したことでしょう。しかし、イエスは言われます。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」私たちが無と信じ込んでしまう絶望の中に、神が働いておられることをイエスは見ておられたのです。皆が泣いているヤイロの家に着いた一行。イエスは三人の弟子と、ヤイロとその妻を連れて子どものところへ行きます。少女の手を取って、「少女、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言われた。これは、私たちの愛する者たちへのことばです。キリストは、彼らの手をも取って、同じように起こしてくださいます。その復活の朝を、私たちは待っています。