2018年9月9日日曜日

マルコによる福音書5:24b〜34「あなたに出会いたい!」

 この人は、この時一体何歳だったのだろう。それは分からない。しかし、実に12年間もの間、病に苦しんできた。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしたが何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」ここまで彼女が重ねてきた期待と失望、絶望、諦め、そのようなものを思わせる一文だ。病は、体も心も攻撃する。疲弊する。彼女も、そして恐らく彼女の家族も、疲れ切っていたのではないだろうか。いや、彼女に家族がいたのかどうかも分からない。彼女を支え、共に痛んでくれる人がいればと願うばかりだが…どうだったのだろう。一つ言えるのは、彼女の病は、当時の社会では「汚れ」と見なされており、タブーとして扱われていたと言うことだ。つまり、社会生活から疎外されていたことが推測されるのである。肉体の苦しみと並ぶ、もしかしたらそれ以上出会ったかも知れない彼女の苦しみが、そこにあったのではないかと思う。どうだろうか。
 彼女は、そんな自分を、主イエスなら救ってくださるに違いないと考えた。いや、「感じた」といったほうがもしかしたらいいのかも知れない。理屈ではなかったのではないだろうか。実は、25から27節は原文ギリシア語のテキストを見ると、一文で言い表されている。「女がいて、医者にかかって、苦しめられ、何の役にも立たず、悪くなるだけで、イエスのことを聞いて、群衆に紛れ込み、イエスの服に触れた。」最後の「触れた」に、すべてが向かっている。彼女の救いへの一縷の望みを託す指先に物語がフォーカスしているのだ。そして、彼女が触れると、すぐに彼女は癒された。彼女は、「救われた」と思ったのではないだろうか。
 しかし、主イエスはそうお考えにはならなかったようだ。イエスは御自分に触れた彼女の指に気づき、立ち止まって、今触れた人を探そうとなさる。しかし、誰もいないところで彼女が一人で後から触れたわけではない。大勢の群衆が後から詰めかけて、たくさんの人がイエスに手を伸ばしていた。弟子たちもあきれたのだろう。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」イエスにそう言ったのだ。なぜなら、このとき一行は急いでいたのだ。会堂長ヤイロの娘が危篤で、早く来て娘を救ってくださいと懇願されてそこに向かう途上での出来事だったのだ。イエスは、なぜ、非常識とも思える振る舞いをしたのか?なぜ、こんなに急いでいるときに立ち止まり、押し迫る群衆の中のたった一人を見つけ出そうとしたのだろうか?
 28節に彼女が、イエスに触れればいやして頂けると思ったとある。実はこの「いやす」は原文ではむしろ「救う」という字である。しかし、29節で「病気がいやされた」の方は文字通り「いやす」を意味する別の動詞だ。彼女にとっては病気の回復が救いだった。しかし、イエスはそうでなかった。病がいやされること以上に、彼女が神と出会うことを救いと考えておられた。だから、彼女がイエスの探索に応えて名乗り出たとき、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエスとの出会いが人間を救う。イエスはあなたとも出会いたいと願っておられるのである。

2024年3月28日の聖句

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