伝統的な教会の暦では、11月1日は諸聖人の日と呼ばれています。教会の中では比較的古くから覚えられてきた祝日で、4世紀頃には既に記録に残っているそうです。聖人と呼ばれるキリスト者や殉教者を覚えてきました。私たちのさがみ野教会で20年間仕えた潮田健治牧師に洗礼を授けた竹入悦夫牧師の父君の竹入高牧師は、戦時中に特高警察に捕らえられ、ひどい拷問を受け、1年三ヶ月の投獄の後に突然釈放、獄中で感染したとみられる結核が原因ですぐに亡くなったそうです。潮田先生は、私には殉教者の血が流れていると思っているとおっしゃいます。そうであるなら、今のさがみ野教会にもその血が受け継がれているということになります。パウロは自分を死刑囚、見せ物、世の屑、すべてのものの滓と呼びました。自分はキリストを信じ、キリストのために愚か者になった、と。やがて彼も殉教します。今私たちが呼んでいるのは、そういう一人の信仰者からの手紙です。パウロがこのようなことを書くのは読んでいる私たちに恥をかかせるためではなく、愛する我が子として私たちを諭すためだと言います(14節)。この手紙にはパウロの愛がこもっています。信仰の父としての我が子への愛です。パウロはキリストにあって教会を愛し、彼らを信じ続けていました。その顔にキリストのお顔を見続けていました。コリント教会から、彼は罵られていました。しかし、「ののしられては優しい言葉を返し」ました。この「優しい言葉を返す」というのは、16節の「そこで、あなたがたに勧めます」の「勧める」と同じ言葉です。キリストのために、ここでもパウロは愚かになって自分を罵る者に慰めを込めた勧めを返しているのです。まさに父としての、教会への愛に生きた牧師として生きたのです。
パウロがコリント教会に届けた勧めは、「私に倣う者になりなさい」という少し意外な言葉でした。11:1では「私がキリストに倣うように、あなたがたも私に倣いなさい」と言っています。キリストの真似をするパウロの真似をする。子どもは、親のまねをします。そうでないと言葉を覚えることもできません。言葉も仕草も怖いくらいに似てきます。でも、私たちがパウロのまねをして、キリストに似ることができるのなら、なんとすてきなことでしょう。キリストを真似るパウロは、キリストを信じて愚か者になりました。弱く、侮辱されながらそれでもその人を祝福し、慰め、迫害を耐え忍びます。それがキリスト・イエスに結ばれたパウロの生き方です。私たちもキリストに似ます。今晩、お風呂に入ったときに鏡の中に映るのは本当の私たちではありません。神さまは、私たちの顔にキリストの顔をご覧になります。私たちは本当の自分を知りません。私たちは、聖書とキリストを自分の鏡にすることが許されています。キリストは、どこまでも謙ってくださいました。十字架に至るまで。このキリストの鏡に映されて知るのは、自分の高慢です。6,7,18,19節と「高ぶる」という言葉が続いていました。しかし高慢な私がキリストという鏡に映されたとき、そこにはその私がもうすでにキリストと共に十字架につけられて死んでいます。あなたは、あなたのために死んだキリストのもの。自分を王として生きるのではなく、キリストを王として生きる神の国に、あなたはもう生きています。洗礼を受けたあなたは聖人の一人なのです。