礼拝は祭りです。そこで罪の赦しが告げられ、解放が宣言され、神の祝福を喜び、分かち合う祭りです。私たちは今朝も祭りをしています。この祭りを、今日の聖書の御言葉では「過越祭」と呼んでいます。過越祭とは、エジプトで奴隷であったヘブライ人たちがエジプトの国から解放されるために、神が助けてくださったことを記念する祭りです。羊を屠って、その地を家の扉の鴨居に塗り、そしてその肉を食べました。その血がしるしになって彼らは助けられた。その脱出の時にパン種を入れないパンを食べた。過越祭の時にはそのことを記念して、種入れぬパンを食べます。「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と言っています。そして、この純粋で真実なパンというのは私たちのことだ、と言うのです。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。」わたしは、この「現に」という言葉が好きになりました。現にあなたはこういうものだ、と神さまが言ってくださいます。私たちも、自分の現実はこうだ、それは聖書とは違うと簡単に言ってしまいます。しかし、神さまはそれに抗して、あなたたちの現実はこれだと言ってくださっている。
ここで言う「パン種」は、とても具体的な出来事が念頭にあったようです。みだらな行い。コリント教会の中に、父の妻を自分のものにしている人がいた。自分の母ではない後妻ということでしょうか。彼女と肉体関係を結んでしまった者がいる。これは社会通念上許されないということに留まらず、聖書(申命記27:20)で禁じられていることです。そのような罪を犯した者を教会がどう取り扱うのかという話です。いや、話は近親相姦だけには留まらない。11節に指摘されているようなみだらな行い、強欲、偶像礼拝、悪口、酩酊、貪欲と収奪などの過ち。教会はそれらとどうやって向き合うのか?そこで教会そのものの信仰が問われます。
パウロは驚くほど厳しいことを言います。2−5節を見ると、そのような罪を犯した者を教会から除外し、霊において裁き、サタンに引き渡すようにと言うのです。まず注目すべきは、パウロが罪をいい加減にしなかったということです。教会でトラブルが発覚したときに、四方丸く収めるために波風立てないことに腐心するということはない。罪は罪としてきちんと対処する。しかしそれは厄介払いするために当事者を放逐するということでもありません。「肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」。ここで言う「肉」とは罪を犯す人間本性といった意味です。それは教会の交わりからひとたび出されて悔い改めに導かれ、「主の日に彼の霊が救われるため」。その人の救いを目指しているのだ、と言います。
私たちはここで躓きやすいのです。コリント教会での出来事について、「現に聞くところによると」とパウロが言うことから、噂が立っていたようです。罪を犯した人としっかり向かい合わずに噂だけ立つ。結局はなあなあにする。罪と向き合うことができない。それは高慢だとパウロは指摘します。共に頑迷固陋な罪人として一人の兄弟・姉妹と共に罪と向き合い、悔い、生き方を改めて、キリストの許に帰る。私たちは罪の奴隷でしたが、キリストの名で救われているからです。