今日の通読箇所:マタイによる福音書18、創世記38、詩編27
創世記38;
タマルという一人の女性と、ヤコブの息子であるユダ、そしてその息子たちを巡る物語です。タマルは、一人の人間として、ユダとその家族から尊厳ある扱いを受けてはいませんでした。
元々、タマルはユダの息子エルの妻でした。しかしエルは主の目に悪とされることを行い、死んでしまいます。二人の間には子どもがいませんでした。そういう場合、長男の弟が兄の妻の所へ入って子どもを産み、兄の家名を残すように定められていました。レビラート婚と呼ばれる制度です。その定めに従ってエルの弟オナンがタマルの所に入りましたが、彼は生まれた子どもが自分の子どもにならず死んだ兄の子になることが不満で、子種を地に流しました。この行いは主なる神様の御心に背くもので、オナンも死んでしまいました。
それで怖くなったのが父ユダです。続けて二人の息子を失い、三男のシェラをタマルのところへ入らせることをやめたくなったのです。それで、タマルをうまく言いくるめてシェラが成人するまでと家に帰してしまいました。やがてタマルはユダがシェラにその責任を果たさせる気がないことを悟り、一計を案じます。タマルは娼婦のふりをしてユダに近づき、舅と関係を持って身ごもりました。ユダはその相手がタマルであることに気づかなかったので、最初彼女の妊娠を知って激怒しましたが、やがて真実に気づいて言います。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ(26節)」。
タマルは、ユダやその家族から、一人の尊厳ある人間と見なされていなかったと思います。そして、私たちが知っているのは、このタマルが生んだユダの息子が、主イエスの系図に残った、ということです。「ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけ・・・(マタイ1:3)」。神様は、尊厳を傷つけられ、名誉をないがしろにされた者に目を留めていてくださいます。
私たちは、私たちの思いを遙かに超えたところで、私たちの受ける理不尽さえもその手におさめておられる方を信じて、今日の日を生きていきたいと思います。主イエスこそ、私たちの間で誰よりも理不尽な目に遭ったお方なのです。
創世記38;
タマルという一人の女性と、ヤコブの息子であるユダ、そしてその息子たちを巡る物語です。タマルは、一人の人間として、ユダとその家族から尊厳ある扱いを受けてはいませんでした。
元々、タマルはユダの息子エルの妻でした。しかしエルは主の目に悪とされることを行い、死んでしまいます。二人の間には子どもがいませんでした。そういう場合、長男の弟が兄の妻の所へ入って子どもを産み、兄の家名を残すように定められていました。レビラート婚と呼ばれる制度です。その定めに従ってエルの弟オナンがタマルの所に入りましたが、彼は生まれた子どもが自分の子どもにならず死んだ兄の子になることが不満で、子種を地に流しました。この行いは主なる神様の御心に背くもので、オナンも死んでしまいました。
それで怖くなったのが父ユダです。続けて二人の息子を失い、三男のシェラをタマルのところへ入らせることをやめたくなったのです。それで、タマルをうまく言いくるめてシェラが成人するまでと家に帰してしまいました。やがてタマルはユダがシェラにその責任を果たさせる気がないことを悟り、一計を案じます。タマルは娼婦のふりをしてユダに近づき、舅と関係を持って身ごもりました。ユダはその相手がタマルであることに気づかなかったので、最初彼女の妊娠を知って激怒しましたが、やがて真実に気づいて言います。「彼女のほうが私よりも正しい。息子のシェラに彼女を与えなかったからだ(26節)」。
タマルは、ユダやその家族から、一人の尊厳ある人間と見なされていなかったと思います。そして、私たちが知っているのは、このタマルが生んだユダの息子が、主イエスの系図に残った、ということです。「ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけ・・・(マタイ1:3)」。神様は、尊厳を傷つけられ、名誉をないがしろにされた者に目を留めていてくださいます。
私たちは、私たちの思いを遙かに超えたところで、私たちの受ける理不尽さえもその手におさめておられる方を信じて、今日の日を生きていきたいと思います。主イエスこそ、私たちの間で誰よりも理不尽な目に遭ったお方なのです。