第7章はコリントの信徒への手紙一の中でも特に長いところで、結婚のことについて書かれています。それだけ、大切なことなのだろうと思います。ここでパウロはあまり断定的なことを言ってはいません。「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を受けている者として、意見を述べます」と言っているので、これは自分の意見にすぎないとしながら、今結婚していないのならそのままでいる方がいいと言っていることになります。40節でも「しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です」と言って自分の考えを述べています。私たちにこうあれねばならないという規則を与えて縛ろうとはしません。これは、とても大切な姿勢だと思います。つまり、私たちは自由なのです。何も考えずにとにかくこれさえ守っていれば良いというルールがあるのではありません。自分で考える自由と責任があります。私たちは自由です。自由な者として、しかし、自分の生活を営んでいく際の土台、あるいは基本線のようなものがあるのだと思います。
その土台が「今危機が迫っている状態にある」とか「定められた時は迫っています」と言っていることです。主イエスは来られる時が迫っている。主イエスが10人のおとめの譬え話をされました。彼女たちはともし火をもって花婿を迎えに行く。しかしなかなか花婿は来ない。真夜中になってやってきた。5人のおとめは賢く予備の油を持っていたが、残りの5人は持っておらず、肝心なときに油を切らした。彼女たちは婚宴に入れなかった。これは、主を待つ信仰を語る話です。私たちは花婿を待つようにして、喜んで主イエスを待っているでしょうか?主が来られる時をパウロは「危機」と言います。「分かれ目」という意味です。油を持っているかいないかを問われる危機です。私たちは主を待ち望んで生きているのか?私たちの毎日は主を待つ者としての生活になっているかと問われるのです。なぜなら、「この世の有り様は過ぎ去るからです」。予備の油を準備していなかったおとめたちは、他のことと結婚式のこととで心がバラバラになり、花婿よりも自分がかかずらっている問題の方が大切になってしまったのかもしれません。このともし火や油とは一体何のことか?神を信じる喜びや、祈りであるのではないかと思います。毎日の生活が忙しすぎて心がいっぱいになり、祈る生活を軽んじていないかと神様に問われていると思いました。
私たちにとって本当に大切なことは、神様を喜び、祈りを楽しむことです。しばしば、結婚生活では、自分自身や相手を喜ばせることだけで頭がいっぱいになってしまいます。しかし、定められた時は迫っていることを、今日知りたいのです。主が来られる時は迫っている。そして、私たちの死の時も、迫ってきています。この世の有り様は過ぎ行きます。過ぎ行くものを土台にしては生きていかれません。私たちが主を喜んで生きる。それは、何よりも、主に喜んで頂くことです。ひたすら主に仕え、主に喜んで頂く。私たちの生き方はそれぞれに多様です。しかし、同じ目的をもって生きています。主に喜んで頂くために。主が憐れみによってこの人生や共に生きる人を下さったと気づくとき、その尊さや美しさ、大切さが、私たちの目に映るのではないでしょうか。