2019年2月23日土曜日

2019年2月23日(レビ記5〜6)

今日の通読箇所:ローマの信徒への手紙11:13~36、レビ記5~6、詩編63

レビ記5~6;
「あらゆる汚れたもの、すなわち、汚れた獣の死骸、汚れた家畜の死骸、汚れた群がるものの死骸などに触れた人は、そのことに気づいていなくても、汚れて、罪責あるものとなる(5:2)」。
知らずに、気づかずにしてしまったことであれば、その責任は軽くてもいいように思います。しかし、「そのことに気づいていなくても」、その人は汚れ、罪責を負うと言います。厳しいように感じます。
私は、自分を省みると、できるだけ自分を免責したいという無責任な傾向があると認めないわけにはいきません。だって仕方なかったからとか、なかったことにできないかとか、すぐに考えてていまいます。しかし、それは、自分の人生に対して責任を持とうとしない、子どものような考え方だと言わねばならないのだろうと思います。大人は自分に対して責任を負います。
しかし、私たちは、どれだけ自分でも気づいていないようなことについて責任を負うことができるのでしょうか。自分の気づかずにしてしまったことでの被害者がいて、もしもその人が指摘をしてくれれば分かりますが、指摘してもらえないこともあります。自分の軽口で人を傷つけたり、熟慮してやったつもりのことで人を損なってしまったりしているのではないか。その罪責を、一体どうやって負えばいいのでしょう。
一つには、「後にそれと知るなら、罪責あるものとなる(5:3)」とあるとおり、知ったときに責めを負うということでしょう。しかし根本的には、もはや神に救って頂くしかないのではないでしょうか。一人の罪人として神の御前にも隣人の前にも悔い改め、このような私をも新しくしてくださる神様の御業を求めます。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです(コリント二5:17)」。

2024年4月29日の聖句

主は正しい。私は主の口に逆らった。(哀歌1:18) ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(マタイ21:28~29) 今日の新約の御言葉は、主イエスの譬え話です。二人...