2019年3月14日木曜日

2019年3月14日(民数記16〜17)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙12、民数記16~17、詩編86

民数記16~17;
イスラエルの民が歩んで荒れ野の40年は、彼らの罪があらわになる日々でした。コラというレビ人が、ダタン、アビラム、オンというルベン族の人と共謀してたくさんの一つを集めてモーセとアロンに対する反逆を企てました。この事件は長いこと尾を引いた、文字通りの「大事件」でした。
モーセは彼らに、こう言いました。「なぜあなたがたは主の会衆の上で思い上がっているのか(16:3)」。この「思い上がり」という言葉に、ギクッとしました。すぐに人を妬んだりうらやんだりする曲がった自分の性根を問われたように思ったからです。夜郎自大という言葉があります。昔、中国にあった夜郎という民族は自分たちの力量も、当時中国を支配していた漢民族の力も知らずに威張っていた、という様子から生まれた言葉だといいます。
モーセやアロンは、神様の御前にへりくだった人たちでした。彼らもたくさん失敗はしてきました。モーセは同法を守るためといいながらエジプト人を殺す殺人を犯し、アロンもコラたち一派と同じくモーセを追い落とそうとしたことがありました。あの金の子牛事件もアロンが首謀者の一人です。しかしこの荒れ野の日々も神様の訓練であったのだと思います。「主の鍛錬を軽んじてはいけない(ヘブライ12:5)」のです。神様に練り清められ、今、彼らはすばらしい知恵を持って人を裁くようになったのではなく、過ちを犯す者たちのために執りなしの祈りをする人になりました。「民の間に疫病が広まり始めていた。アロンが香をたき、民のために贖いをし、死んだ者と生きている者との間に立つと、疫病は治まった(17:13)」。私たちは試練の時に、愚かにも罪に罪を重ねてしまいます。しかし、その困難は神の鍛錬です。私たちが心を柔らかくし、隣人のために執り成す物になるための、神からの訓練の日々なのです。そして、何よりも、深い主イエス様の赦しへと帰るための神の招きなのです。

2025年7月23日の聖句

私を広いところに導き出した。 私を助け出し、喜びとしてくださる。(詩編18:20) 神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄ではありませんでした。(1コリント15:10) 「神の恵みによって、今の私があるのです」というのは、一人パウロだけの言葉で...