今日の通読箇所:マルコによる福音書1:1~20、民数記20~21、詩編88
民数記20~21;
メリバの水の出来事。あまりにも不可解です。民が荒れ野で「ここは穀物もいちじくも、ぶどうもざくろもない所で、飲み水さえもありません(20:5)」とモーセとアロンに詰め寄り、主は「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたは彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に水を飲ませなさい(8節)」とモーセに命じました。モーセは、「聞け、反逆する者たちよ。私たちがあなたがたのために、この岩から水を出さなければならないのか」と言って杖で岩を二度打つと、果たして水がたくさん出てきました。
ここまでは良かったのですが、神様はモーセとアロンに言われます。「あなたがたは私を信じることをせず、イスラエルの人々の目の前に、私を聖としなかった。それゆえ、あなたがたは、私が彼らに与えた地にこの会衆を導き入れることはできない」。実際、この第20章でアロンは死にます。そしてモーセも約束の地を見ながらも、そこに入ることはできませんでした。
何がいけないというのでしょう。神様が言ったとおり、岩から水を出したのではないか?モーセとアロンの何が神様の聖なる事を表さない行いだったのかは、聖書がはっきりと書いていないので良く分かりません。推測することはできます。神様は、このとき、「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われました。ところが、モーセは岩を二度打った。細かくて些末な違いのようですが、「命じろ」と言われたのに「打った」のです。実は岩を打つという方法を、モーセは以前経験していました。かつて、主はモーセに言われたのです。「私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたがその岩を打つと、そこから水が出て、民はそれを飲む(出エジプト記17:6)」。モーセはその時その通りに行い、民は水を飲むことができました。モーセはその時の成功体験に基づいて、ここでも岩を打ったのかもしれません。命じるのか、打つのか。小さな差のように見えますが、実は、今神が語ってくださっている言葉を聞くのか、それともかつての成功経験に頼るのか、その違いは決して小さくないと思います。
今日、神様は私たちに何と語りかけておられるのでしょうか。今朝、私たちに救いを告げる主の言葉を、新しい思いと従う信仰を持って耳を傾けましょう。
2026年2月2日の聖句
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