2019年3月9日土曜日

2019年3月9日(民数記7)

今日の通読箇所:ヘブライ人への手紙9、民数記7、詩編80

民数記7;
今朝の民数記は、正直に言って、読むのがつらい箇所です。ひたすら同じことが12回繰り返されています。祭壇奉献に際して、イスラエルの12部族それぞれから同じ献げ物が神にささげられました。それを、キチンと12回繰り返して、同じように報告しています
例えば、このような書き方もできたはずです。「イスラエルの全部族の代表者たちは、それぞれ同じ献げ物を献げた。すなわち、聖所のシェケルで重さ130シェケルの銀の皿一枚、・・・」と。あるいは、二番目に献げたイッサカル族以下は、「以下同文」とすることもできたのではないかと思ってしまいます。もしかしたら私たちはあまりに便利なコンピューターを使い慣れすぎていて、昔の人よりもこらえ性がないのかもしれないとさえ思います。今では「コピーアンドペースト」という便利な機能もありますから、いちいち同じ文章を打ち直す必要はない。ただ機械的に淡々と続き、それをただ機械的に淡々と読むということになりかねないのです。
しかし、聖書はそのようにしませんでした。一人ひとり、つまり一部族ずつ、丁寧に献げ物を記録していきます。そこに意味があったのだと思います。何よりも、これは「祭壇奉献」の献げ物でした。祭壇での礼拝の献げ物は、レビ記で見たとおり、献げ物の量や方法が細かく決められていました。皆、それに乗っ取った献げ方をしたということになります。つまり、個々人のニーズに従った礼拝ではなく、神の求めに応じて礼拝スタイルが決められたのです。
神様が求めておられる献げ物を、神様が求めてられるとおりに、心を込めて献げる。そこに礼拝が始まります。礼拝において、神様は、私たちに親しく福音を語りかけてくださいます。「モーセが神と語るために会見の幕屋に入ると、証しの箱の上にある贖いの座、その上に据えられた二つのケルビムの間から彼に語りかける声が聞こえた。神は彼に語りかけられた(89)」。これは、私たちへの語りかけでもあるのです。

2024年12月25日の聖句

私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。(出エジプト記6:7) 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。(1ヨハネ3:1) クリスマス、おめでとうございます。 主なる神さま...