今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙一15:1~28、ヨシュア記8~9、詩編119:129~144
ヨシュア記8~9;
なんとも奇妙な話です。ヨシュア記第9章です。ギブオン人らは破竹の勢いで向かってくるイスラエルに恐れをなし、策を講じました。イスラエルの指導者ヨシュアの下に降伏しましたが、その際に嘘の情報をだし、自分たちは遠くに住むものでイスラエルが責めるべき存在ではないと騙したのです。ヨシュアたちはそれを信じ、彼らを受け入れました。「人々は彼らの食料の一部を受け取ったが、主の指示を求めることはしなかった。ヨシュアは彼らと和平を結び、彼らの命を保証する契約を結んだ(14~15節)」。
ところが、すぐにギブオン人らが嘘をついていたことに気づきます。そうとなれば彼らを敵と見なして攻め上るべきなのか?何しろ、申命記ではカナンの地にいる先住民について、「あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたが彼らを討つとき、必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない。彼らと契約を結んだり、彼らを憐れんではならない(申命記7:2)」と言われていたのです。正確に言えば滅ぼすべき民のリストにエブス人は入ってはいませんが、それにしても主なる神様の指示を仰ぐこともなく勝手に契約を結んだというのは褒められたものではないでしょう。
それなのに、自分たちがよく確認もせず、主に問うこともなく、騙されたとはいえ軽率に契約を結んだことが判明したとき、彼らは言いました。「私たちのはイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。だから今、私たちは彼らに触れることはできない。私たちのなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。私たちが彼らに誓った誓いのゆえに、私たちの上に怒りが下ることはないだろう(19~20節)」。そして実際に、特に彼らがこのことで軽率な近いの罰を受けるようなことはなかったのです。なんとも奇妙で、不思議な話ではないでしょうか。
この話は、誓いの重さを伝えているのではないでしょうか。主の御名によって誓うことは、他の何にも優先されるほどに責任あること。軽々しい約束をしてはならないのだと思います。自分の口から出てくる言葉をそのような視点から顧みてみると、恐ろしくなります。私が今日、軽々しい言葉を口にしてしまわないように・・・どうか主よお守りくださいと祈りつつ一日を始めたく思います。
2025年12月15日の聖句
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