2019年4月3日水曜日

2019年4月3日(申命記17〜18)

今日の通読箇所:マルコによる福音書10:32~52、申命記17~18、詩編110~111

申命記17~18;
もしもイスラエルの中に他の神々や天の万象などを礼拝する者がいれば、その人は死刑にしなければならないと言われています。恐ろしい言葉です。その場合、「死刑にするにあたっては、最初に証人たちが手を下し、それからすべての民が手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を除き去りなさい(17:7)」とも言われています。これは、石打ちの刑で殺すとき、その第一投を投じるのは死刑囚が他の神々を礼拝していると証言した者だ、ということです。
今日は、この言葉を主イエスとの関係から考えてみたいと思うのです。主イエスは、石打ちとは違いますが、死刑囚として十字架にかけられました。私たちは使徒信条で、「ポンテオ・ピラトのもとで十字架にかけられ」と告白しています。そこには、ピラトの名前が記録されている。しかし、主を十字架に掛けようと言い出したのも、熱狂してイエスを十字架に掛けろと叫んだのも、ピラトではありませんでした。それは主イエスと同じ神を信じているはずの人たちでした。
主イエスが十字架に掛けられたとき、その責任を負った人はいなかったのです。告発した者も、イエスを十字架に掛けろと叫んだ者も、皆、匿名です。だれも最初の石、第一投を投げる勇気はなかった。でも、他の人の間に隠れて、自分の責任は回避したままで、ただイエスを殺しただけなのです。それが、私たちがイエスを殺した有様なのです。
主イエス・キリストが十字架に掛けられ、復活した後に弟子たちに現れたとき、そこでは大衆としての出会いではありませんでした。一人ひとりのところへ、名前を持つ一人の人間に出会うために、「マリア」とか「シモン」とか「サウロ」と、呼んでくださったのです。キリストは、私たちの名前も、今日、呼んでおられます。

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