今日の通読箇所:マルコによる福音書10:32~52、申命記17~18、詩編110~111
申命記17~18;
もしもイスラエルの中に他の神々や天の万象などを礼拝する者がいれば、その人は死刑にしなければならないと言われています。恐ろしい言葉です。その場合、「死刑にするにあたっては、最初に証人たちが手を下し、それからすべての民が手を下す。あなたはこうして、あなたの中から悪を除き去りなさい(17:7)」とも言われています。これは、石打ちの刑で殺すとき、その第一投を投じるのは死刑囚が他の神々を礼拝していると証言した者だ、ということです。
今日は、この言葉を主イエスとの関係から考えてみたいと思うのです。主イエスは、石打ちとは違いますが、死刑囚として十字架にかけられました。私たちは使徒信条で、「ポンテオ・ピラトのもとで十字架にかけられ」と告白しています。そこには、ピラトの名前が記録されている。しかし、主を十字架に掛けようと言い出したのも、熱狂してイエスを十字架に掛けろと叫んだのも、ピラトではありませんでした。それは主イエスと同じ神を信じているはずの人たちでした。
主イエスが十字架に掛けられたとき、その責任を負った人はいなかったのです。告発した者も、イエスを十字架に掛けろと叫んだ者も、皆、匿名です。だれも最初の石、第一投を投げる勇気はなかった。でも、他の人の間に隠れて、自分の責任は回避したままで、ただイエスを殺しただけなのです。それが、私たちがイエスを殺した有様なのです。
主イエス・キリストが十字架に掛けられ、復活した後に弟子たちに現れたとき、そこでは大衆としての出会いではありませんでした。一人ひとりのところへ、名前を持つ一人の人間に出会うために、「マリア」とか「シモン」とか「サウロ」と、呼んでくださったのです。キリストは、私たちの名前も、今日、呼んでおられます。
2025年9月7日の聖句
今週の聖句: 傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ42:3a) 今日の聖句: 私はこの口で、大いに主に感謝し、多くの人の中で、主を賛美します。(詩編109:30) (イエスは腰の曲がった女の)上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇...
-
1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...