2019年4月6日土曜日

2019年4月6日(申命記23〜25)

今日の通読箇所:マルコによる福音書11:45~57、申命記23~25、詩編115

申命記23~25;
「父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない。人は自分の罪のゆえに殺される(24:16))」。
この御言葉を読んで、私たちの国のテレビの騒ぎを思い出してしまいました。例を挙げるなら枚挙にいとまはありません。先日の薬物報道でテレビの話題になった人の時も、その方の父親がテレビに引っ張り出されていたようです。50歳を過ぎた人について父親がテレビで謝罪させられるなんて、どう考えても異常です。しかし、私たちはそういう話題を次から次へと消費しています。そうやって、犯罪者と呼ぶ人の家族のことをも社会的に殺しています。しかし、「父は子のゆえに殺されてはならない。子は父のゆえに殺されてはならない」のです。
ところが、この御言葉はさらに続くのです。「人は自分の罪のゆえに殺される。」罪を犯した人は、やはり社会の中でひどい目に遭うのが当然の報い、ということなのでしょうか?
16節には、三回「殺される」という言葉がありますが、これらは三度とも受動態になっています。誰に殺されるのかは書かれていません。おそらく、「父は子のゆえに」と「子は父のゆえに」殺されてはならないの最初の二度は、「人々に」とか「社会に」という意味なのだと思います。しかし三度目の「人は自分の罪のゆえに殺される」は、神様との関係を言い表したものだろうと思います。人は自分の罪のゆえに殺される。それは、私たちの罪に報いるのは、社会ではない、人々の目でもない、神様ご自身だ、ということなのではないでしょうか。ですから、人間が人間の罪をあげつらい、自分は安全地帯にいながら勝手に裁き、後ろ指を指すのは、ましてそれが本人ではなく家族であるなら、全くの誤りです。
私たちは、罪を犯してしまいます。それが私たちの現実です。その時、その罪を吟味し、報い、私たちを裁かれるのは、神様です。だから私たちは神様に向かって罪を悔い、キリストにあって新しくされて、もう一度やり直すことができるのです。キリストに赦されたことをしるとき、私たちは、私たちが傷つけてしまった隣人にも、真摯に自分の罪を悔い改めることができるのではないでしょうか

2025年11月2日の聖句

今週の聖句: 何が善で主は何を求めておられるか。公正と慈しみを愛し 行って、謙遜に神と共に歩むことである。(ミカ6:8) 今日の聖句: 多くの国民が主に連なり、私の民となる。(ゼカリヤ2:15) 神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。(黙示録21:...