知恵の呼び声が巷に響いている。しかし、誰もそれに耳を傾けようとはしない。「いつまで浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち…」。自分の価値観や生き方への執着が知恵の呼び声を聞くべき耳を閉ざしてしまう。主を畏れることを選んでいない(29節)。「だから、自分たちの道が結んだ実を食べ、自分たちの意見に飽き足りるがよい」。自分の意見が通るならそれが理想的だと思ってしまうが、実はそれが裁きだと言う。浅はかさへの執着だからだ。
2024年5月3日の聖句
耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ19:14) (イエスの言葉)あなたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36) 悪意を持ってわざと耳の聞こえない人を呪ったり、目...
-
主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
-
今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記1 8、詩編124~125 ヨシュア記18; 「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのを いつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つ の部族には所有地が割り当てられましたが、 まだ...
-
詩編29~30 主は洪水の上に座し 主は王として、とこしえに座した。 主がその民に力を与えてくださるように。 主がその民を祝福してくださるように 平安のうちに。(30:10~11) 川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の...