今日の通読箇所:ルカによる福音書20:1~18、サムエル記上11~13、ヨブ記3
サムエル記上11~13;
サウルが王となった頃、イスラエルは周辺諸国の中で小さなものであったようです。強い外国に圧倒されて、屈辱をなめていました。しかしサウルの戦果はすばらしく、外国の脅威を追い払い、国内の治世も安定しました。これこそ、人々が求めていたことでした。人々は喜んだ。
それに対し、サムエルは、もう一度人々に思い起こさせます。「今こそしっかり立って、主があなたがたの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今日は小麦の刈り入れのときではないか。私が主に呼び求めると、主は雷をとどろかせて雨を降らせる。それを見て、自分たちのために王を求めたことが主の目にどんなに大きな悪であったかを知るがよい(12:17)」。王を求めるというのは、この世界を造り、保っていてくださり、雨を降らせ太陽を昇らせる神が王であるということを否定することです。サムエルの目にはそう映っていました。人々は、その罪を認めます。「我々はあらゆる罪の上に、王を求めるという罪を加えてしまいました(19節)」。
事柄の本質は、どういう政治形態を執り、どのように国を作り上げるか、という方法論の話ではないと思います。神が私たちを支配しておられるという目に見えない事実を受け入れ、それを前提とした生活をしていくのか、それとも目に見えて安全そうであり、安心をえられそうなものを選ぶのか、ということです。
第13章では、サウル王の治世にペリシテと再び戦争になりました。戦況は悪い。サムエルも来ない。このとき、サウルはサムエルを待ってするべきであった礼拝、犠牲の奉献を自分の手でしてしまいました。それは間違った判断でした。サウルの言い分は、分かります。「兵が私から離れ去っていくのを目の当たりにしていても、あなたは定められたときに来られず、しかもペリシテ人はミクマスに集結しています。私は・・・やむをえず焼き尽くすいけにえを献げました(13:11~12)」。しかしそれは主の御前では間違った判断でした。彼は主を畏れることなく、目に見える敵の脅威や兵が離れる「現実」しか見ていなかったのです。
サウルは見目麗しく、人々は彼に熱狂した。しかし彼は目に見えるものしか見ず、人々も同じでした。サムエルは、一貫して目に見えない神を信じ、畏れ、仕えています。サムエルの振る舞いこそ、神を王として生きるということです。そしてサウルや人々の振る舞いは、目に見えるものを王とし、常識を王とし、目に見える安心を王とするということに他ならない。私たちは今朝再び問われているのです。あなたの王は誰ですか、と。
2025年8月30日の聖句
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