今日の通読箇所:ルカによる福音書19:1~27、サムエル記上7~8、ヨブ記1
サムエル記上7~8;
第7章はサムエルの壮年期、第8章は老年期の記録です。
第7章では、サムエルの治世にペリシテが再びイスラエルに攻めてきました。人々はサムエルに、我々のために祈ってくれるように頼みます。サムエルが完全に焼き尽くす献げ物を献げて礼拝している間にも、「ペリシテ人はイスラエルに戦いを挑んできたが、主はこの日、ペリシテ人の上に激しい雷鳴をとどろかせ、混乱させたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた(7:10)」。サムエルは、何よりも人々が神を信じ、仕えて生きることを大切にしていたようです。その間、国は平和でした。
第8章に入ってサムエルは年を取り、彼の息子たちは父とは違って賄賂を取る人間だったので、イスラエルの人々はサムエルに言います。「今、他のすべての国々のように、我々を裁く王を立ててください(8:5)」。彼らの言い分はサムエルの目には悪と映りました。しかし主なる神様は、彼らの言い分を飲めとサムエルに言います。「彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に聞き従いなさい(8~9節)」。結局、彼らはサムエルの再三にわたって王が本質的に民から収奪して支配する存在であることを警告してもそれに耳を貸さず、王の奴隷として生きる道を選んだのです。
問題の根は、人々が、神が王であることを拒んだ、ということです。神様を捨てたことが急所です。サムエルの治世は、その点を大切にしていました。神を王とし、神に仕え、神の民であることを喜んでいました。それに対して王を求める民は、他の国と同じようになること、目に見える安心、そういうものを自分たちの神としていたのだと思います。「普通」であることが、彼らの神でした。
私たちの神は、誰でしょうか。私たちの王は、誰なのでしょうか。私たちは誰に支配されて生きているのでしょうか。
2025年12月11日の聖句
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