今日の通読箇所:サムエル記上18:18~43、サムエル記上5~6、詩編149~150
サムエル記上5~6;
ペリシテ人はイスラエルの神の箱を戦争で奪い、自分たちの信じる神であるダゴンの神殿に運び入れました。しかし、そのために、ダゴンの神殿に災いが重なります。ペリシテはこんなものをここに留めておくことはできないと、ガトという町に移します。ところが、それで話は済みませんでした。「箱が移されてくると、主の手が町兄大きな混乱を引き起こした。町の住民は子どもから大人まで打たれ、腫れ物が彼らの間に蔓延した(5:9)」。そこで、次にエクロンという町にこれを移します。「イスラエルの神の箱をここに移し、私と私の民を殺すつもりか(10節)」。彼らは死の恐怖に包まれました。それで、ペリシテ人の領主たちは集まって、神の箱をイスラエルに戻すことにしました。彼らにとって神の箱は、災いをもたらす厄介者だったのです。彼らは七ヶ月にわたって箱を野ざらしにしておきました。どうしていいのか分からなかったのでしょう。
ついに、彼らはそれを戻すことにしました。子牛につないで、牛が運ぶままにさせます。結局、牛は箱をベト・シェメシュにあるヨアシュという人の畑まで運んでいきました。それは、ユダ族の領地のちょうど境界線にあたる場所です。つまり、イスラエルの端っこまで運んで、ペリシテ人としては厄介払いをして一安心、ということになりました。
イスラエルの人々は、神の箱が帰ってきたのを見て、喜びました。「ベト・シェメシュの人々は谷間で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ(6:13)」。ところが、ベト・シェメシュの人々は聖なる箱の中をのぞき込んでしまう。そのために「主は五万の民の中から七十人を打たれた(19節)」ので、彼らは恐れます。「一体誰がこの聖なる神、主の前に立つことができようか(20節)」。
神の箱を巡って、恐ろしい出来事が続きました。神の箱は、本来は神が与えてくださった御言葉であり、喜ばしいものであったはずです。それが災いを招いたのは、神との関係の結び方について、私たちに示唆を与えているように思います。神は、私たちにとっては何より畏れるべきお方です。自分たちの欲望を満たすために便利に使ったり、安心をえるためのお守りではありません。神様は、生きた聖なるお方。私たちにとっては、礼拝すべき方です。そしてこの神は、愛と慈しみに富んだお方です。だから、私たちは喜んでお迎えする。なれなれしくではなく、聖なる方として。私たちは、聖なる愛に満ちたお方の前におり、この方を礼拝しています。
サムエル記上5~6;
ペリシテ人はイスラエルの神の箱を戦争で奪い、自分たちの信じる神であるダゴンの神殿に運び入れました。しかし、そのために、ダゴンの神殿に災いが重なります。ペリシテはこんなものをここに留めておくことはできないと、ガトという町に移します。ところが、それで話は済みませんでした。「箱が移されてくると、主の手が町兄大きな混乱を引き起こした。町の住民は子どもから大人まで打たれ、腫れ物が彼らの間に蔓延した(5:9)」。そこで、次にエクロンという町にこれを移します。「イスラエルの神の箱をここに移し、私と私の民を殺すつもりか(10節)」。彼らは死の恐怖に包まれました。それで、ペリシテ人の領主たちは集まって、神の箱をイスラエルに戻すことにしました。彼らにとって神の箱は、災いをもたらす厄介者だったのです。彼らは七ヶ月にわたって箱を野ざらしにしておきました。どうしていいのか分からなかったのでしょう。
ついに、彼らはそれを戻すことにしました。子牛につないで、牛が運ぶままにさせます。結局、牛は箱をベト・シェメシュにあるヨアシュという人の畑まで運んでいきました。それは、ユダ族の領地のちょうど境界線にあたる場所です。つまり、イスラエルの端っこまで運んで、ペリシテ人としては厄介払いをして一安心、ということになりました。
イスラエルの人々は、神の箱が帰ってきたのを見て、喜びました。「ベト・シェメシュの人々は谷間で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ(6:13)」。ところが、ベト・シェメシュの人々は聖なる箱の中をのぞき込んでしまう。そのために「主は五万の民の中から七十人を打たれた(19節)」ので、彼らは恐れます。「一体誰がこの聖なる神、主の前に立つことができようか(20節)」。
神の箱を巡って、恐ろしい出来事が続きました。神の箱は、本来は神が与えてくださった御言葉であり、喜ばしいものであったはずです。それが災いを招いたのは、神との関係の結び方について、私たちに示唆を与えているように思います。神は、私たちにとっては何より畏れるべきお方です。自分たちの欲望を満たすために便利に使ったり、安心をえるためのお守りではありません。神様は、生きた聖なるお方。私たちにとっては、礼拝すべき方です。そしてこの神は、愛と慈しみに富んだお方です。だから、私たちは喜んでお迎えする。なれなれしくではなく、聖なる方として。私たちは、聖なる愛に満ちたお方の前におり、この方を礼拝しています。