2019年7月3日水曜日

2019年7月3日(列王記下9〜10)

今日の通読箇所:使徒言行録21:1~16、列王記下9~10、箴言2

列王記下9~10;
アハブの家に、神の裁きが下ります。その最後は悲惨なものでした。エリシャは、若い預言者を遣わして、イスラエルの将軍イエフに油を注いで新しい王とします。そのイエフが、アハブの子であるヨラムに謀反を起こし、彼を殺しました。イエフはヨラム王に対しては「あなたの母親イゼベルの淫行と呪術がはびこっている」と言い、イゼベルに対しては「あの呪われた女」と言います。彼の心は怒りで燃えていた。主なる神をとことん蔑ろにし、バアルに国と国民を明け渡した王家に、イエフは怒り、熱情を燃やしていたのです(10:16)。その心は、「私は万軍の神、主に非常に熱心に仕えてきました(列上19:10)」と言ったエリヤの心と一つだったのだと思います。
イエフはアハブの身に起こったことを、自分の軍事的な手柄とは考えませんでした。主の言葉が成就した、と受け止めていました。ヨラム王がナボトの所有地で死んだこと、イゼベルの死体が犬に食われたこと、一つひとつが主の言葉の成就だと言うのです。さらに、アハブの家の者たちも、バアルの預言者も、皆殺しにされました。バアルの神殿は徹底的に破壊しつくされ、肥だめにまでされたのです。
イエフのしたことは本当に徹底していて、もしかしたら、そこまでしなくてもいいのではないか、という感想が出てくるのではないかと思います。確かに現代の社会の感覚からすると、あまりに残酷です。しかし、私は考えないわけには生きません。アハブとイゼベル、そして彼らに連なる者たちにまで及ぶこの激しい裁きがどうして行われたのか。彼らが徹底して主を蔑ろにし、主に仕えることも礼拝することも拒み、主を捨てたからです。もしかしたら、アハブやイゼベルの姿は、私の姿であるのかもしれません。彼らは預言者たちを何人も殺しました。マタイ21:33~46で、主イエスがぶどう園と農夫のたとえをしてくださいました。ぶどう園の収穫を受け取るために遣わした使いたちを、農夫は何人も殺しました。最後には農園の主人の息子も殺しました。これは、明らかに私たちの姿です。イエスを殺した私たちです。私たちは、アハブとイゼベルと共に、神を殺す家の者として裁かれ、殺されるべきです。そのような私たち農夫を救ってくださったのは、他ならない、農夫に殺されたイエスご自身です。主なる神様の御前に、悔い改めつつひれ伏し、今日の日を始めていきましょう。

2025年1月14日の聖句

貧しい人を憐れむ者は、神をあがめる。(箴言14:31) イエスはその若者に向かって言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」(マタイ19:21) 貧しい人への神さまのまなざしは...