2019年9月1日日曜日

2019年9月1日(イザヤ書1〜2)

今日の通読箇所:ガラテヤの信徒への手紙1、イザヤ書1~2

イザヤ書1~2;
預言者イザヤの言葉です。彼は預言者の一人として、神様の前での人々の罪を告発し、悔い改めを促し、神のもとへ立ち帰るように勧告しました。「牛は飼い主を知っており、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らない。私の民は理解していない(1:3)」。
主を知るというのは、礼拝の仕方の形式を知っているとか、神様に関する知識を持っている、ということではありません。「あなたがたのいけにえが多くても、それが私にとって何なのか。私は、雄羊の焼き尽くすいけにえと、肥えた家畜の脂肪に飽きた(11節)」。さらに、それを忌み嫌っているとまで言います。それは、一方ではそのように立派な礼拝をしながら、他方では貧しい者、虐げられた者、孤児、寡婦を守ることなく、却って彼らを食い物にしているからだ、と言われるのです。
しかし、主は呼びかけます。「さあ、論じ合おう。あなたがたの罪が緋のようでも、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊毛のように白くなる。あなたがたが進んで聞き従うならば、地の良き実りを食べることができる(18~19節)」。このように預言者はただ社会的不正義を告発するだけではなくて、それを神様との関係の中で訴えます。神に立ち帰ることと貧しい者や弱い者を守ることとは、一つのことだからです。
高慢な者に対する主の言葉は、本当に厳しいです。「人間の高慢は卑しめられ、人の高ぶりは低くされる(2:17)」。主はご自分の前にへりくだる者を高く上げてくださいます。このお方は、私たちを滅ぼそうとしているのではなく、救おうとしてくださっているからです。「終わりの日に、主の家の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって川の流れのようにそこに向かい、多くの民は来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう。主はその道を私たちに示してくださる。わたしたちはその道を歩もう』と(2:2~3)」。神の御許へ立ち帰れ。それは、今私たちに向かう神の悲痛な呼びかけなのです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...