2019年10月23日水曜日

2019年10月23日(エレミヤ書44〜45)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書4:31~54、エレミヤ書44~45

エレミヤ書44~45;
第44章に記録されているエレミヤの預言は、43:8によると、タフパンヘスで語られた言葉です。これはエジプトの地名ですので、エレミヤはバビロンを恐れてエジプトへ下ってしまった人たちと一緒に行ったようです。第45章以降はこれよりも前の時代の言葉ですので、第44章がエレミヤの最後の預言です。エレミヤはエジプトで消息を絶ちます。
最後は、神様の言葉を無視してエジプトに下った事に対する罪の指摘がなされています。「なぜ、あなたがたは寄留するためにやって来たエジプトの地で、自分の手の業によって私を怒らせ、他の神々に香をたくのか」(44:8)。エレミヤが、自分に与えられた人生のすべてをかけて語り続けたことは、まことの神だけを神としてあがめるということです。エレミヤも、他の預言者たちも、結局彼らが言ったことはこの一点に尽きます。私たちは、一体誰を神としてあがめているのでしょうか。今、この時代のこの国に生きる者として、神様から問われます。
「すると、自分の妻たちが他の神々に香をたいているのを知っている男たち、大集団で立っている女たち、さらにはエジプトの地と上エジプトに住む民がこぞってエレミヤに応えて言った。『あなたが主の名によって私たちに語った言葉のことで、あなたに聞き従うわけにはいきません。私たちは口に出した言葉どおりにすべて必ず行い、天の女王に香をたき、注ぎの供え物を注ぎます。私たちは、先祖も王も高官も、ユダの各地の町やエルサレムの巷でそうしてきました。私たちはパンに満ち足り、幸せで、災いを見ることはありませんでした』」(15~17節)。
聖書が見ている罪の根は、ここにあります。神ならぬものを神とすることです。私たち人間は、パンため、満ち足りて幸せに生きるために、簡単に神ならぬものを神としてはばからない。そこに罪があります。皆がそうしているから、古式ゆかしい伝統だから、日本人だから、文化だから、・・・。いくらでも言い訳は挙がってきますが、主なる神様が私たちに求めておられるのは、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」という第一戒に示された御心なのです。

2024年5月17日の聖句

あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。(出エジプト記23:9) 正しい人たちが王に尋ねた。「主よ、いつ、見知らぬ方にお宿をお貸ししたでしょうか。」王は答えた。「よく言っておく。この最も小さな...