2019年10月26日土曜日

2019年10月26日(エレミヤ書50)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書6:1~40、エレミヤ書50

エレミヤ書50;
「カルデア人の地バビロンについて、主が預言者エレミヤを通して語られた言葉」(1節)。ここに記されているバビロンについての預言は、「バビロンは占領され、ベルは辱められた」(2節)と言われているように、バビロンに対する裁きの預言です。バビロンが倒され、イスラエルへの救いの預言がなされています。「その日、その時にはイスラエルの子らが来る、彼らもユダの子らも共にーー主の仰せ。彼らは泣きながらひたすら歩き、彼らの神、主を尋ね求める。彼らはシオンを訪ね、顔をその方向に向けて言う。『さあ、行こう。主に連なろう。永遠の契約が忘れられることはない』と」(4~5節)。
この章を読んでいくと、少し戸惑ってしまいます。イスラエルへの救いの言葉は好いとしても、バビロンが、いくら敵だとは言ってもここまで言われて良いものだろうか、と。「バビロンの地から逃れた者や難を免れた者の声が、シオンで、我々の神、主の復讐を、その神殿の復讐を告げ知らせる」(28節)。近代戦による戦争の惨禍を知る私たちには、戸惑いをも与える言葉ではないでしょうか。
私たちがこの預言の言葉を読むときに一つわきまえるべき事は、力の非対称性です。この時のイスラエルは、圧倒的に非力でした。政治的にも軍事的にも、すでに滅亡したイスラエルがバビロンに復讐することは実際上は不可能です。対等な力を持つ者同士の間の言葉ではありません。
もう一つには、復讐を求める詩編の祈りの言葉もそうですが、イスラエルや預言者にできたのは、祈ることだけです。復讐は神に属することであって、実際に手を下さすのは自分たちではありませんでした。そして、祈るだけというのは、言葉を換えれば神に委ねるということです。自分たちのこれからも、敵との関わりも、神様にすべてを任せる。私たちはそのようにして神様のもとに逃れていきます。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...