2019年12月27日金曜日

2019年12月27日(ゼカリヤ書7〜8)

今日の通読箇所:マタイによる福音書1、ゼカリヤ書7~8

ゼカリヤ書7~8;
イスラエルの人々がバビロンに捕囚されて70年、その間、彼らはどんな思いで過ごしてきたのでしょうか。自分たちが神を蔑ろに、無視して、好きなように欲望の赴くままに作ってきた社会が崩壊し、そのことをまざまざと見せつけられ、この辛い時間を過ごしていました。世代が交代しようとも捕囚の現実は変わることなかった。それが思わぬ形で捕囚から解放され、少しずつ帰還が始まっていった。この預言はそういう時代の言葉です。
預言者ゼカリヤは主に問います。「『私は、長年行ってきたように、第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。』すると、万軍の主の言葉が私に臨んだ。『この地のすべての民と祭司たちに言いなさい。「あなたがたは第五の月にも第七の月にも断食して嘆いてきた。こうして七十年になるが、あなたがたは本当に私のために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするときは、ただ自分のために食べたり飲んだりしているだけではないのか」』」(7:3~6)。断食は、ここでは悔い改めのしるしです。神の前に悔い改めの祈りを献げる。この捕囚の現実を引き起こした自分たちの罪を神の前に告白する。ところが、そうやって断食しても、結局は自己満足にすぎず、神に献げるものになっていないと指摘されています。
それは、「真実に裁きを行い、互いに慈しみ、憐れみ合え。寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。互いに悪を心にたくらんではならない」(9~10節)と言われているとおり、形ばかりの断食をしても、生き方がそれを裏切っているということに他ならないのだと思います。
そうであるからこそ、神ご自身が救ってくださるのです。「私はシオンのために大いなる妬みを起こし、大いなる憤りをもってシオンを妬む」(8:2)。主の熱い思いが神の民を救ってくださいます。断食も変わります。「万軍の主はこう言われる。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって歓喜と喜びとなり、恵み溢れる定めの祭となる。真実と平和を愛せよ」(19節)。断食が歓喜と喜びの祭の日となると言います。暗い顔で、いかにも苦行をしていますという顔で断食するのではなく、主に献げる祭と祝いの日に変わると言います。
主の前に喜び祝う者は、生き方も変わります。「あなたがたのなすべきことはこれである。互いに真実を語り、あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。互いに心の中で悪をたくらんではならない。偽りの誓いを求めてはならない。これらすべてを私は憎むからだーー主の仰せ」(16,17節)。共に、隣人として生きることができる。それが主が私たちに下さる幸いです。主の前に喜び、共に生きること。主は私たちのためにそのような国を来たらせてくださいます。

2024年12月21日の聖句

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