2020年3月10日火曜日

2020年3月10日(ヘブライ人への手紙10:1〜18)

ヘブライ人への手紙10:1~18;
「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なるものとされたのです。すべての祭司は、毎日立って礼拝の務めをなし、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のためにただ一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもがご自分の足台となるときまで、待っておられます。実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。」
神様の、そして人の前に私たちの犯してしまった罪を、一体どうしたら良いのか。誰かが私に対して働いた悪を一体どう受け止めたらいいのか。かつて、そのために動物を犠牲とし、その血を流すことで、罪の責任の所在を明らかにしてきました。しかし、所詮は動物の血であって、本当には私たちの罪を処理することなどできません。本当であれば、私たち自身が、犯してきた罪の責任をとらなければならない。しかし、問題は、責任を取りきることがおよそ不可能である、ということです。どんなに謝っても謝りきれないこともあるし、責任を取るためには自分の命を差し出すより他ない、あるいは、それでも責任を取ったことにならない、というのが本当のところなのではないでしょうか。
キリストは、私たちの罪と過ちのための犠牲となって、血を流してくださいました。キリストが血を流して、その罪の責任を全部引き受けてくださった。だから、私たちはもう完全なのもにしていただいた。聖書はそう宣言します。私たちには良心の呵責があり、その責めを追い切れなくて見て見ぬ振りをしたりしてしまいます。そんな私たちの、知っている過ちも知ることさえできていない過ちも、全部キリストが負ってくださいました。だから、私たちはもう完全な者なのです。
私たちをキリストが完全にしてくださったというのは、信ずべき事柄です。キリストに信頼するべき、信仰の対象です。キリストが神の右におられて、この私の罪のためにも執り成してくださっている。私たちを誘惑するこの世の霊をその足台とするまで、キリストが私たちのために戦っていてくださいます。イエス・キリストが、私たちを罪から救う救い主です。この事実はどのようなときにも揺らぐことがありません。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...