ヘブライ人への手紙4;
「だから、神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたの内から出るなどということがないように、注意しようではありませんか。」
苦しみの時代を生きていた、恐らくローマにあった教会に宛てられた手紙です。受け手の教会の人々の中には、自分たちのさらされている苦しみに負けて、信仰を捨ててしまう者もいたようです。それで、「神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたの内から出ることがないように、注意しよう」と呼びかけています。
そしてその励ましの参照点にするのが、一つには、旧約の民です。彼らの多くは試練の中で信仰を捨ててしまいました。「福音が告げ知らされているのは、私たちも彼らも同じだからです。しかし、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。」旧約の民は神に背いた否定的な媒介として、私たちの目を神様に向けさせます。そして、もう一つの参照点は、他ならぬ神様ご自身なのです。「なぜなら、ある箇所で七日目について、『神は七日目に、そのすべての業を終えて休まれた』と言われているからです」と述べています。」神様ご自身がこの手紙の招きの根拠なのです。神様ご自身がこの天と地とをお造りになり、そして安息日にお入りになった。何の仕事もせず、ただ、安息なさった。この安息に私たちは招かれている。だから、いただいた信仰を堅く守り抜こうと言うのです。
ここで、再びヘブライ書は主イエス・キリストを「イエス」とお呼びします。「さて、私たちには、もろもろの天を通ってこられた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。」しかも、「神の子イエス」と呼んでいます。第一章で「御子」と呼んだ方は人間イエスとして私たちの間に宿り、神はこの方をキリストとして私たちを救われた。その神の子イエスは、私たちのための大祭司です。この方は私たちの弱さに同情してくださる。憐れんでくださる。ご自身が試練に遭ったからです。私たちが神の安息に入るための執りなしを、この方がしてくださいます。そうです。神に背いた旧約の民と私たちとの差は、ただこの主イエスという大祭司を知っているかいないか、というだけにすぎません。