2020年4月16日木曜日

2020年4月16日(ヨハネによる福音書21:15〜25)

ヨハネによる福音書21:15~25
「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子が付いてくるのを見た。・・・ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『私が来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたは、私に従いなさい。』それで、この弟子は死なないという噂がきょうだいたちの間に広まった。」
恐らく、このやりとりには、この福音書が書かれた時代の教会の事情が反映していると考えられます。ヨハネによる福音書が書かれた時代、すでに使徒ペトロは殉教していました。ペトロの殉教については、主イエスご自身が「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」と言っておられます。福音書はこの言葉について、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と解説しています。
しかし、この福音書を書いたと考えられている使徒ヨハネは、古い伝承では12人の使徒たちの中で唯一殉教しなかったと言われています。それが本当なのかはよく分かりませんが、しかし少なくともこの時点では殉教していなかった。もしかしたら当時の教会の中には、ペトロを英雄視し、ヨハネをそれよりも一段低く見るような状況があったのではないかと思います。
「主よ、この人はどうなのでしょうか。」ペトロはそう主イエスに問いました。しかし、主は言われます。「私が来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。」彼がどうなるかは私と彼との関係のことであって、あなたには一切関わりがないと主は言われます。厳しい言葉です。
私たちは、どうしても比較によって自分を測ります。私たちの小さな頃から社会がそれを強いてきたという面もあります。勉強がどれくらいできるか、運動がどれくらいできるか、絵や歌にまで点数をつけます。私たちは比較されることになれてしまっていて、いつの間にか信仰まで比較の世界でしか捉えられなくなっています。しかし、主は、彼と私との関わりは、あなたには関係がないと言われる。言葉を換えれば、それは他者が立ち入ることのできない聖なる領域だということではないでしょうか。
主はペトロに言われました。「あなたは、私に従いなさい」と。ヨハネと主イエスとの間に聖なる領域があるように、ペトロと主イエスとの間にも聖なる領域があります。主は、私たちにも言われます。「あなたは、私に従いなさい」と。今のような危機のときには同調圧力が高まります。人と違うことをしてはいけないというプレッシャーにさらされています。しかし、私たちの基準は、主に従うこと。主イエスとの聖なる関係が、私たちの主軸です。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...