2020年4月26日日曜日

2020年4月26日(ルカによる福音書5:17〜39)

ルカによる福音書5:17~39
主イエス・キリストの宣教の急所は、一体どこにあるのでしょうか。主の弟子になった漁師は、主の言葉に従って降ろした網に魚が一杯にかかっていたことを畏れ、主の膝元にひれ伏して「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言いました。
主は、ご自分のところに連れてこられた体の麻痺した人に向かって、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われます。しかし律法学者やファリサイ派の人々はこの言葉が大変不満で、「神を冒瀆するこの男は何者だ。罪を赦すことができるのは、ただ神だけだ」と論じ始めました。
主はレビという徴税人が収税所に座っているのを御覧になって、「私に従いなさい」と言います。レビは主に従いました。彼はイエスために盛大な宴会を催しましたが、そこには徴税人や他の人々が大勢いて、それを見たファリサイ派の人たちは「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか」と言います。すると主イエスは答えて、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言いました。
どの話でも、罪が問題になっています。私たちが神様の前に出たとき、必ず罪が問題になります。ここで問題になる罪というのは、倫理道徳の違反ということよりも、むしろ私たちが私たちを造り、命を与えてくださった神様に向かって生きているか、という問題です。シモンは目の前におられる方がただの人間ではないことに気づいたとき、この方の前にふさわしくない自分であることを深く知りました。主は体の麻痺した人の苦しみの本質が、肉体の麻痺以上に神様の前に平安がないことにあると見抜いておられました。主は私たちがどんなに罪深くとも、「私は罪人を招いて悔い改めさせるために来た」と言ってくださいます。主は、私たち罪人を招いて、悔い改めの恵みに入れるために来てくださいました。主の宣教の急所は、罪の赦しの福音です。
主はその福音を「新しいぶどう酒」と呼びます。新しいぶどう酒を納めるためには、古い革袋ではなく新しい革袋が必要です。私たち自身が新しくなることを主は望んでおられます。新しくなるというのは、私たちが悔い改めの促しを、恵みとして喜ぶということではないでしょうか。主イエス・キリストは、私たちを新しくしてくださいます。私たちが喜んで主の前に生きることができるようにしてくださっているのです。

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31) (イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28) 福音書記者マルコは主イエ...