2020年4月3日金曜日

2020年4月3日(マルコによる福音書10:32〜52)

マルコによる福音書10:32~52;
「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。』イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。』」
栄光をお受けになるとき、とヤコブとヨハネは言いました。王になる時を想像していたのでしょうか。人々に崇められる時に、それにあずかりたいと思っていたのでしょうか。主イエスは、あなたたちは自分が何を願っているのか、分かっていないと言われます。栄光をお受けになるときということで主がお考えだったのは、このマルコによる福音書が書いていくことを考えるならば、やはり十字架にかけられるときのことをお考えだったと言わねばならないでしょう。その時に実際に主の右と左にいたのは、一緒に十字架にかけられた二人の強盗でした。「イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(15:27)」ルカによる福音書を見ると、このうちの一人は「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と言いますが、マルコは特にそういうことを報告していません。それどころか、「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った」と伝えています。
つまり、主の栄光の時に右と左にいた者たちは、徹底的に犯罪人であり、一緒に十字架にかけられながらイエスを罵る者たちだった、ということになります。ヤコブとヨハネは、自分たちの願ったことが分かっていませんでした。主の栄光の時にその右と左にいるというのは、罪人の中の罪人だということです。しかし、そう考えると、本当は私たちは皆、その座にいなければならない者です。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」主イエスさまは、私のような罪人の最たる者のために、ご自分を身代金として献げてくださった。その圧倒的な事実に気づかされます。主イエス・キリストに、栄光がありますように。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...