2020年4月4日土曜日

2020年4月4日(ヨハネによる福音書11:1〜16)

ヨハネによる福音書11:1~16;
マリアとマルタの兄弟ラザロが病気になっていました。マリアとマルタは主イエスのもとへ人をやって、伝えてもらいました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」今、この叫びが、世界中の至る所で上がっています。その気持ちは、想像するに余りあります。しかしそれでも、実際にその立場になったならば、そうでないときに思い描いたものでははるかに及ばない痛みと切実さを込めて、私たちは祈ることでしょう。なぜなら、主イエス・キリストは、そういう私たちの痛みが分かる方だと信じているからです。例え誰に分かってもらえなくても、主は知っていてくださいます。
ところが、主はなかなか来てはくださいませんでした。「ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じ所に滞在された」のです。なぜなのかは、分かりません。ただ、主はこうおっしゃっていました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
「この病気は死で終わるものではない。」この言葉をひっくり返して、セーレン・キェルケゴールは『死にいたる病』という本を著しました。死に至る病、それは絶望だ。絶望とは、人間が神に造られた者として本来あるべきものではなくなってしまうところで生まれる。神との関係が壊してしまったからです。そうすると人間は自分であることから逃避するか、本来あるべきではない自分であろうとする。どちらも、絶望でしかない。絶望から救われる道は、ただ、神との関係の中に自分を発見することにしかない。私なりに要約すると、そのような内容でしょうか。
ラザロは、やがて主イエスによって墓から出てきます。それによって、主は栄光をお受けになった。ただしその「栄光」というのは奇跡を起こした者としての栄冠というのとは違うと思います。なぜなら、このラザロの復活の出来事の後、急激に十字架への道に突き進んでいくことになります。ラザロの出来事を通して主がお受けになった栄光とは、十字架に他ならない。そうであろうと思います。
「この病気は死で終わるものではない。」その言葉を、ラザロにも私たちにも現実のものとしてくださるために、主イエスはラザロの所へ行き、十字架へと向かって行かれます。主は、私たちの叫びや祈りを、何よりも深いところで聞いてくださっていたのです。私たちを死に至らしめる絶望、罪の絶望から救い出して、主は私たちを眠りから起こしてくださいます。その「時」について、私たちは十字架のイエスにお任せしてよいのです。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...