2020年4月5日日曜日

2020年4月5日(マルコによる福音書11:1〜19)

マルコによる福音書11:1~19;
主イエス・キリストがエルサレムに入城なさいました。そのために、主は一頭の子ろばを準備しておかれました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐ
ここにお返しになります』と言いなさい。」弟子たちに、そのように命じました。
ここで、主イエスは弟子たちに「主がお入り用なのです」と言うようにと命じておられます。私は、この言葉が心に残りました。主がお入り用。何のために?エルサレムに入城するためです。エルサレムに入って何をするのか?十字架へと、イエスは向かって行かれました。十字架へと向かって行かれる主の歩みのために、この子ろばが必要なのです。
主は子ろばを必要とするほどに、はっきりと十字架へと向かって行かれました。私たちのために、私たちに代わって、神からも私たちから捨てられるために、子ろばに乗って主はエルサレムへと向かって行かれます。
馬に乗って都に入るのは、王の凱旋です。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」王としての救い主が、私たちのところに来てくださった!私たちはそのことを喜び、主イエスをお迎えするのです。ただこの方は、馬ではなくろばに乗る方。柔和な王。暴力によって戦って制圧する王ではなく、暴力を振るわれ命を奪われることによって私たちを救う王です。
今日から受難週が始まりました。今年は普段の年とは違う空気の中で受難週を迎えました。しかし本当は、本質的には何ら変わってはいないのだと思います。私たちはこの王を十字架で殺した。その事実は変わらない。それが急所です。わたしたちは今心を騒がせられるような出来事を目の当たりにしています。しかしわたしたちが主イエスの前に何者なのかは、一切変わっているわけではありません。その事実に恐れを覚えます。キリストをお迎えするこの棕櫚の主日を、わたしたちは神様の御前に歩み始めました。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...