2020年10月3日土曜日

2020年10月3日(テトスへの手紙3)

テトスへの手紙3
「私たち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、さまざまの欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに日々を過ごし、人に嫌われ、互いに憎み合っていました。しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。」
本当に、ありがたい御言葉だと思います。無分別、不従順、道に迷い、さまざまの欲望の奴隷、悪意と妬み、人に嫌われ、互いに憎み合う。どれ一つをとっても自分と無関係とは言えない。というよりも、私そのものです。私のことがここに書いてある。それなのに、聖書は驚くべきことを言います。「私たち自身もかつては」と言うのです。無分別や不従順、それにそれ以下のものは、すべて「かつて」だと言います。今は違います。今や、これらはすべて過去の私になりました。
なぜなら、今や神の愛が現れたからです。私たちの罪は過去のものとなり、神の愛が私たちの現在になった。だから、恵みに満ちた将来を、神が私たちのために準備してくださっているに違いありません。
神様は私たちを私たち自身の正しさや行いの立派さではなく、ご自分の慈しみと愛とによって罪から救ってくださいます。自分の立派な行いがものを言うのなら、絶望しかありません。ところが神は、ご自分の憐れみに偏って私たちのことを見てくださるから、私たちの罪を過去のものとしてくださいます。
「この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。神は、この聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストを通して、私たちに豊かに注いでくださいました。こうして私たちは、イエス・キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」
神様の憐れみは、私たちを洗って清くし、再生させてくださいます。洗うといえば、洗礼を思い起こすことができる。洗礼を受けたとき、私たちは神ご自身の霊によって洗われて、新しく生まれ、永遠の命を受け継ぐ者にして頂いた。私たちの生きている「今」は、神の恵みによって成り立っている「今」であり、神の恵みが現れた「今日」だということを、私たちの心に刻みたいと願います。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...