2020年11月25日水曜日

2020年11月25日(ヨハネの手紙一3)

ヨハネの手紙一3
「きょうだいを憎む者は皆、人殺しです。人殺しは皆、その内に永遠の命をとどめていないことを、あなたがたは知っています。御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

この章の冒頭では、次のように言っています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。」私たちは神の子ども。ヨハネはそう宣言します。子どもは、顔や仕草や言葉遣いがいつの間にか親に似てきます。
しかし、私はどうなのでしょう?神の子どもと言っていただいても、神様に似ている私なのか?主イエスさまに少しでも似ているのか?そう考えると、いてもたってもいられない気持ちになります。だからこそ、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどのことをしてくださったか、考えてみなさい」と言うのです。主イエスと似ても似つかない私を神の子とするために、御父はご自分の独り子を与えてくださいました。私が神の子どもになったというよりも、正しくは神が私をご自分の子どもとしてくださったのです。神が、私をご自分の子どもと呼んでくださったのです。
だから、互いに愛し合おうと聖書は呼びかけます。神の子としていただいたのだから、神の子らしく生きよう、と。私たちは、御子がこの私のために命を捨ててくださった愛を知っている。御子が私のために貧しくなり、弱い人間の肉体を持ち、私の友となってくださったことを知っている。キリストに現された神の愛を知っている。だから、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」と訴えます。
愛するということが、神の子としていただいた私らしい生き方。聖書はそのように言います。愛を欠いて、いつまでも言葉や口先だけ。所詮私はその程度の者。そう思ってしまいがちです。しかし、それが「私らしい」ということではありません。神がご自分の子と呼んでくださったのですから。神が独り子を与えてくださったのですから。神の子として私たちが喜んで生きることができるように、キリストの愛が私たちを温めてくださるのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...