2020年11月5日木曜日

2020年11月5日(ヨハネによる福音書11:1~16)

ヨハネによる福音書11:1~16
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

エルサレムからそれほど離れていない場所にベタニアという村がありました。そこにマルタとマリアという姉妹がいた。彼女たちのことは他の福音書にも書いてあります。主イエスを家に招き、お迎えして食事をしていただいただけに、とても親しい弟子たちであったのでしょう。彼女たちにはラザロという兄弟がいました。ラザロがは気でした。死に至る病を煩っていた。そこで、愛する弟のためにマルタとマリアは主イエスに助けを求めました。「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」それを聞いたらすぐに主イエスが駆けつけてくださるものと期待していたに違いない。ところが、主はなかなか来てくださいませんでした。「ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じところに滞在された。」どうして主イエスは早くラザロのところに行こうとなさらなかったのか。しかも不可解なのは、主ご自身が「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」と言い、弟子たちがただ単に眠っているだけだと勘違いしたときに「ラザロは死んだのだ」とはっきりと言っておられるのです。弟子たちよりも深くラザロの身に起きていることを知りながら、それでもすぐにベタニア村へ行こうとはなさらなかった。不可解なことです。
主イエスがその理由を言っています。「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」あなたがたが信じるため。それが理由だと言われる。
思えばこの福音書ではいくつかの主のなさった奇跡が記録され、そのたびに、何人かの人がイエスを信じたという描写がありました。しかし、そこで信じた人たちの多くがその直後につまずき、却ってイエスへの憎しみをあらわにしてきました。信じると言っても本当に信じたのではなく、凄い奇跡を見て好感を持ったということだと思います。結局その奇跡のしるしとしての意味を理解しようとしないので、主イエスが神の子であるということを言うと、最後はイエスを拒んだ。そういうヨハネによる福音書の中で、このラザロの出来事は奇跡の中の奇跡、しるしの中のしるしです。このしるしによって、私たちはイエスが神の子として死を打ち破る力を持っておられることを知るのです。この病は死に至る。しかし、主イエスには「この病気は死で終わるものではない」と言うことができ、死を乗り越えることができる。弟子たちはこのしるしを目撃し、主イエスを神の子として信じることになる。だから、この出来事はあなたたちにとってよかったのだ、とイエスは言われます。
私たちの人生の目標は、主イエスと出会うことです。私たちに怒るさまざまな出来事を通して、主イエスは私たちと出会い、ご自分を神の子と示しておられる。その語りかけを聞き信じる人は、幸いです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...