2021年1月20日水曜日

2021年1月20日(詩編24)

詩編24
門よ、頭を上げよ。
とこしえの扉よ、上がれ。
栄光の王が入る。
栄光の王とは誰か。
強く勇ましい主。
戦いの勇敢なる主。(7~8節)

さがみ野教会の週報の週間予定表では、土曜日のところに「主日の準備」と書いてあります。私はこの書き方を、渋沢教会で神学生として研修したときに浜崎孝先生から学びました。主日の準備。それは、牧師が説教の準備をしたり会堂を整えたり、という意味ではありません。いや、それも含みます。しかしそれだけではないのです。礼拝者一人ひとりの、主の日に向けた準備です。例えば、土曜日は夜更かしをしない、そのために一日のスケジュールを整えるというのも一つの準備だと思います。
この詩編では「門よ、頭を上げよ」と呼びかけていました。栄光の王が来るからです。強く勇ましい、主なる神様が来られるから。それに備えて門は頭を上げ、扉は上がるべきだ、と言います。この方は「地とそこに満ちるもの」を造り、「大海の上に地の基を築き、大河の上に世界を据えた」方です。この世界の造り主、支配者が私たちのところへ来てくださる。そのための準備をしよう、と呼びかけています。
私たちは、主なる神様をお迎えするために、どのような準備をするのでしょうか。大切なお客様を迎えるためには、家を掃除したりきれいな服を着たりします。主をお迎えするために、私たちはどうやって準備しているのでしょうか。
この世界を造ったのは神さまですから、この世界に神さまの手が届かない場所、神さまのものではないところはありません。そういう意味では、神さまはお迎えする前から私たちのところにおられると言うべきなのかもしれません。ただそうであっても、あるいはそうであるからこそ、主と出会うための準備をするということは尊く、大切な営みなのではないでしょうか。そして、主と出会う準備をするのは土曜日だけではありません。私たちの毎日の営みが、主と出会うための準備です。私たちは門として頭を上げ、扉として上がり、主をお迎えします。私たちの王であり、造り主である方が私たちのところへ来てくださっているからです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...