詩編9
主よ、立ち上がってください。
人が己の力を頼むことなく
国々が御前で裁かれますように。
主よ、国々に畏れを抱かせ
思い知らせてください。
己が人に過ぎないことを。(20-21)
ここに引用をした、この詩編の最後の言葉が心に残りました。「主よ、国々に畏れを抱かせ、思い知らせてください。己が人に過ぎないことを。」畏れというのは当然神への畏れでしょう。神を畏れ、自分は人に過ぎないことをわきまえる。今、私たちが失っていることだと思いました。
コロナのこと一つを考えてみても、このような疫病が出てきたことには何らかのかたちで人間の活動が関係しているのだろうと思います。今まで踏み入れなかった自然の深部に足を踏み入れていったとか、人間の活動が招いた温暖化だとか、説はいろいろあって私にはどれが正しいのかは分かりませんが、現代社会の人間の活動が無関係とは思えません。私たちの社会は、自然に対してあまりにも人間中心主義的に振る舞っています。自然からほしいままに収奪し、長期的にどういう影響を与えるかということよりも今の利益を優先させます。それは強欲だとか刹那的だとかいろいろな批判はできると思いますが、急所は、私たちが人間に過ぎないという事実を忘れているということであると思います。己が人に過ぎないことを忘れれば、人間は化け物になってしまいます。
「人間中心主義の非人間性」と言った人があります。その通りだと思います。さらに「非人間中心主義の人間性」とも言っていました。人間を中心に考えたときに、結局は非人間的な振る舞いを呼び込んでしまう。逆に人間を中心におかない構えを見せたとき、本当に人間を大切にすることができる。
人間を中心におかないといったときに、それでは何が中心にあるのか。この詩編では神を蔑ろにする者たちに対して、「貧しい人が(神から)永遠に忘れられ」ることは決してない、と言います。貧しい人や苦しみ人、社会の中の弱者を神は覚えている、と言います。人間中心主義的な振る舞いは、人間中心と言いながら、結局は自分中心であり、強者中心です。社会の中の弱い立場の人や物言わぬ自然を神が愛し、大切にしておられることに気づくとき、私たちの生き方は変わります。そのようにして、神が私たちの中心におられることを、私たちは学んでいくのではないでしょうか。
主よ、立ち上がってください。
人が己の力を頼むことなく
国々が御前で裁かれますように。
主よ、国々に畏れを抱かせ
思い知らせてください。
己が人に過ぎないことを。(20-21)
ここに引用をした、この詩編の最後の言葉が心に残りました。「主よ、国々に畏れを抱かせ、思い知らせてください。己が人に過ぎないことを。」畏れというのは当然神への畏れでしょう。神を畏れ、自分は人に過ぎないことをわきまえる。今、私たちが失っていることだと思いました。
コロナのこと一つを考えてみても、このような疫病が出てきたことには何らかのかたちで人間の活動が関係しているのだろうと思います。今まで踏み入れなかった自然の深部に足を踏み入れていったとか、人間の活動が招いた温暖化だとか、説はいろいろあって私にはどれが正しいのかは分かりませんが、現代社会の人間の活動が無関係とは思えません。私たちの社会は、自然に対してあまりにも人間中心主義的に振る舞っています。自然からほしいままに収奪し、長期的にどういう影響を与えるかということよりも今の利益を優先させます。それは強欲だとか刹那的だとかいろいろな批判はできると思いますが、急所は、私たちが人間に過ぎないという事実を忘れているということであると思います。己が人に過ぎないことを忘れれば、人間は化け物になってしまいます。
「人間中心主義の非人間性」と言った人があります。その通りだと思います。さらに「非人間中心主義の人間性」とも言っていました。人間を中心に考えたときに、結局は非人間的な振る舞いを呼び込んでしまう。逆に人間を中心におかない構えを見せたとき、本当に人間を大切にすることができる。
人間を中心におかないといったときに、それでは何が中心にあるのか。この詩編では神を蔑ろにする者たちに対して、「貧しい人が(神から)永遠に忘れられ」ることは決してない、と言います。貧しい人や苦しみ人、社会の中の弱者を神は覚えている、と言います。人間中心主義的な振る舞いは、人間中心と言いながら、結局は自分中心であり、強者中心です。社会の中の弱い立場の人や物言わぬ自然を神が愛し、大切にしておられることに気づくとき、私たちの生き方は変わります。そのようにして、神が私たちの中心におられることを、私たちは学んでいくのではないでしょうか。