2021年3月23日火曜日

2021年3月23日(詩編92)

詩編92
いと高き方よ、なんと喜ばしいことか
主に感謝し
あなたの名をほめ歌うことは。
朝に、あなたの慈しみを
夜ごとに、あなたのまことを告げ知らせるとは。
十弦の琴に合わせ
竪琴に合わせ
琴の調べに乗せて。(2~4節)

「喜び」がこの詩編の一つのキーワードなのかなと思います。冒頭の2節でも「なんと喜ばしいことか」と言っていますし、5節でも「主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。私はあなたの手の業を喜び歌おう」と言っています。私たちは何を喜んでいるのでしょうか。何を楽しみとし、嬉しがっているのでしょうか。
この詩編には思慮なき者とか悪しき者と呼ばれる人たちが登場しています。彼らは悪事を働いている。彼らが「草のように茂り」とか「花を咲かせても」などと言っています。つまり、何らかの意味で繁栄し、成功を収めているのだろうと思います。世間の価値基準で言うと、多くの人に認められたり、うらやましがられたりするような立場にいるのでしょう。言葉を換えれば、彼らも、彼らを評価する世間も、お金持ちになることや褒めそやされることを喜んでいるということであろうと思います。彼らを前にして問われるのは、自分自身のあり方です。他の人が正しいか間違っているかと言うことではなく、この私は、何を喜び、何を求めて生きているのか?
この詩編の祈ります。「あなたは私の角を野牛の角のように上げ、新しい油で私を潤した(11節)」。神さまが私の角を上げてくださること、神さまが私に油を注いでくださることを待ち望み、それを喜びとする、という告白です。角を上げるというのは、栄光を与えるということでしょうか。油を注ぐというのも同じような意味であるのかもしれませんが、新約聖書の時代を生きる私たちは、これを、神がご自分の霊、聖霊をお送りくださると受け止めて差し支えないと思います。神がこの私にご自身の霊を注いでくださる。私がいよいよ神を信じ、神を喜びとして生きる者となるように、神さまの霊によって私を生かしてくださる。
神を求める人を13節では「正しき人」と呼びます。彼は「年老いてもなお実を結ぶ、命豊かに、青々として」(15節)。そのように年を取りたいと切に願います。神さまに向かって生きることこそ、私たちの喜びです。

2024年12月26日の聖句

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