2021年3月29日月曜日

2021年3月29日・受難週月曜日(マルコによる福音書11:20〜12:17)

マルコによる福音書11:20~12:17
イエスは、彼らの偽善を見抜いて言われた。「なぜ、私を試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚嘆した。(12:15~17)

イエスの言葉尻を捉えて陥れようとした人々が、ファリサイ派やヘロデ派をイエスのところへ遣わして言わせました。「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」注意すべきは、納税の相手が皇帝であることです。この当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。自分たちの祖国ユダヤに納める税金の話をしているのではない。自分たちを支配するにっくきローマ帝国への税金の話です。従って「納めるべきだ」と言えば、ユダヤの愛国主義者たちはイエスを責めたてるでしょうし、民衆の人気も下がるでしょう。しかし「納めるな」と言えば、ローマに対する反逆だと当局に訴えることができる。なかなか周到に練られた作戦です。
主イエスは、彼らの言葉に隠された偽善を見抜きました。彼らは本当は税金のことなどどうでも良い。そのことで悩んでいるわけでもない。ただイエスを陥れたいだけ。そのことを見抜いたのです。それで、彼らの持っている銀貨を見せるように言い、そこに刻まれた肖像と銘を確かめさせます。皇帝の肖像が彫られ、その銘が刻まれている。もしもこれが皇帝のものなら皇帝に返せば良い。そして、神のものは神に返しなさい。主イエスはそう言われます。
私たちが手にしているお金は、誰のものなのでしょう?いや、お金の問題だけではないと思います。私たち自身は、一体誰のものなのでしょうか。私たちに刻まれているのは、誰の肖像であり、誰の銘なのでしょうか?
神さまが最初に人をお造りになったとき、このように言われました。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」(創1:26)。私たちには神の像が刻まれています。そして、私たちには神の銘が刻まれています。洗礼を受けたときに、刻み込まれたのです。これはキリストのもの、キリスト者、と。キリストは私たちを神のものとして取り戻すために十字架にかけられました。私たちは主のもの、その民。今日一日の私たちの祈りが、神のものを神にお返しするものでありますように。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...