2021年4月20日火曜日

2021年4月20日(詩編114)

詩編114
イスラエルがエジプトから
ヤコブの家が言葉の違う民の中から出たとき
ユダは主の聖所となり
イスラエルは主の治めるところとなった。(1~2節)

かつて、エジプトの国、奴隷の家にいたイスラエルの人々。主なる神様は彼らを救い、言葉の違う民、エジプト人が治める国からイスラエルの人々を出してくださいました。
荒れ野を旅するイスラエルのために海の中に道ができました。エジプトを出てすぐの時の出来事です。一度はエジプトからイスラエルの人々が出て行くのを認めていたファラオは、その後すぐに奴隷としての労働力が惜しくなり、再びイスラエルを捕らえるために戦車に乗って彼らを追った。その時に、主なる神様がイスラエルのために海の中に道を拓いてくださったのです。
それだけではありません。ヨルダン川の中にも道ができました。今度は40年間の荒れ野の旅の最後、パレスチナに入っていくときのことです。春の水が多い時期でしたが、神さまが川の中に道を通してくださって、彼らは約束の地に入っていくことができたのです。
神さまは、イスラエルの人々を覚え、守り、その道を切り開いてくださいました。神様ご自身がエジプトの国、奴隷の家から救いだしてくださったから。その救いは彼らの旅の間中変わることがなかったのです。
私たちの信仰者としての旅路もまったく同じです。神さまは私たちのためにも、海を開いて道とし、川を後ずさりさせて私たちのために通路を拓いてくださいます。その究極的な道は、キリストの復活によって拓かれた、死を通り抜ける道です。改革者ジャン・カルヴァンがジュネーブ教会信仰問答という本を書いています。キリストの十字架の死について書いているところで、キリストが十字架にかけられて死に、私たちへの神の呪いを引き受けてくださったということを書きながら、このような問答を提示しています。

問 しかし、われわれは死ぬことを少しもやめないのですから、この勝利はわれわれに何かの益をもたらすように思われません。
答 それは何ら妨げになりません。なぜならば、信徒たちの死は、今や彼らをよりよい命へ導くための、通路に他ならないからであります。

私はこの言葉が大好きです。キリストの十字架、そして復活が、私たちの死を単なる通路に変えてくださったというのです。死は大きな海の波や大河の流れように、私たちの力ではどうすることもできません。しかし、キリストが十字架にかけられた今、死はもはや単なる通路に過ぎない。キリストにあってよりよい命に私たちが生まれるための、通路に他ならない。私たちを治める神の国の支配は、私たちの死にゆくときにも確かであり続けるのです。

2024年4月23日の聖句

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