2021年9月1日水曜日

2021年9月1日の聖句

主よ、わたしは恵みの時にあなたに祈ります。神よ、あなたの大きな善意であなたのまことの助けをともなって聞いてください。(詩編69:14)
イエスは言われる:あなたたちが私の名によって父に願うなら、父は与えてくださる。(ヨハネ16:23)

P.T.フォーサイスというスコットランドの牧師が『祈りのこころ』という名著を残しています。その冒頭で、フォーサイス牧師は言います。「最悪の罪は祈らないことである。」とても印象深い言葉です。祈りは誰にでもできますが、しなくても特に困らないし、しないことに馴れることはいくらでもできます。しかし、キリスト者が祈らないのは自己矛盾だ、とこの牧師は言うのです。この言葉に続けて、フォーサイスは言っています。
「キリスト者にさえ、わたしたちをしばしば驚かせるような、明白な罪、もしくは犯罪、もしくは顕著な矛盾があるのは、祈らないことの結果、もしくはそれに対する罰である。わたしたちは神を求めないので、神に捨てられるのである。」
私たちの犯す過ちは祈りをおろそかにしたことの結果であり、祈りに怠慢だから堕落するのだ、とこの一人の牧師は言うのです。
今日の詩編は「神よ、あなたの大きな善意であなたのまことの助けをともなって聞いてください」と祈っています。神さまの大きな善意に信頼し、神が必ず助けてくださることを信じて祈ること自体が、この人が祈りに生きてきた証しなのかもしれません。私たちは神を求めるほどになお一層神を求める者とされ、神を愛するほどに、神の愛を深く知るのです。主イエスは言われます、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マルコ4:25)。
だから、キリストは、私たちが祈ることを願っておられます。しかも御自分の名前によって祈ることを。私たちは、こんな祈りをしても良いのかな、神さまに迷惑じゃないかな、無駄なんじゃないか、罪深い祈りではないか、恥ずかしい祈りだ・・・などなど、いろいろな言い訳をしながら祈りをやめてはいないでしょうか。確かに、祈りの中で罪を犯すこともあるかも知れません。しかし、その罪は、祈らない罪に比べればずっと軽いのです。主イエスは、私たちのどのような祈りであっても御自分のお名前によって祈ることを求めてくださいました。私たちの祈りにはキリストの御名というリボンが付けられ、神さまへの美しい供え物にされるのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...