2021年10月4日月曜日

2021年10月4日の聖句

私には顔ではなく背を向けておきながら災難に遭えば、「立ち上がって、お救いください」と言う。(エレミヤ2:27)
信仰とは望むことを確信し、見えないものを疑わないことです。(ヘブライ11:1)

神さまに顔ではなく背を向ける。それは、今日の新約聖書の御言葉とのつながりで言えば「信じない」ということです。神さまを信頼していない。本音のところでは他のものに頼っている。他のものを信頼している。だから顔が他のところを向いてしまっている、ということなのだと思います。目は他のものを見、耳は別の声を聞こうとしている。神さまを信頼し、神さまに頼ろうとしていない。それなのに、災難に遭えば、「立ち上がって、お救いください」と言う。その不誠実さを咎めています。
信じるというのは、尊いことです。大切なことです。私たちには、信じられない自分の弱さを正当化したり美化したりしてしまうことがあるのではないでしょうか。例えば、あるとき、キリストが弟子たちだけを舟に乗せて、ガリラヤ湖に漕ぎ出させたことがありました。ところがすぐにひどい逆風に襲われた。すると、イエスは夜明け頃に湖の上を歩いて弟子たちのとことへやって来ます。弟子たちは幽霊だと思って叫びましたが、イエスは「私だ。恐れることはない」と言われました。そこでペトロが、「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」と願います。イエスは「来なさい」と言った。ペトロは水の上を歩いてイエスに近づいた。とこが風を見て怖くなり、沈みかけます。イエスはペトロの手を取って助けてくださいました。その時、主イエスがペトロに言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。
主イエスは、信じられなくても仕方ないよね、風は強いし怖いのは仕方ないよ、とはおっしゃいませんでした。ところが私たちはすぐに信じられない言い訳をしたくなります。信じられない弱さも、イエス様はゆるしてくださる、と。確かにそうかもしれませんが、しかし主イエスはあくまでもペトロが信じることを願っておられます。疑わずに信じろと主イエスは言われるのです。私たちの目はどこに向いているのでしょうか?キリストでしょうか、それともキリストに背を向けて風を見たり、自分の身を支えてくれそうなものを探したりしていないでしょうか。キリストをまっすぐに見つめて、この方を信じれば、私たちは大丈夫です。
信仰とは望むことを確信し、見えないものを疑わないことです。信仰は、望みに深く関わります。信じているけど希望がない、ということはありえません。キリストと共にある将来を、私たちは信じているからです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...