2021年10月5日火曜日

2021年10月5日の聖句

私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。(エレミヤ31:34)
イエスについては、すべての預言者が、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。(使徒10:43)

今日、私たちが耳にしている福音は、赦すとは忘れることだということです。「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」主なる神様はそのように言ってくださいます。神さまは、もはや私たちの罪を思いおこさないと言われます。
使徒言行録に、パウロという人が出てきます。もとはサウロと名乗っていました。サウロは熱心なファリサイ派で、キリストを信じる者たちを激しく憎み、教会を迫害していました。あるとき、ダマスコの町へ行き、キリスト者たちを縛りあげてやろうと息巻いて向かっていました。ところが突然天から光が射し、サウロは倒れ込み、光の中で声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と。この声はキリストの声だったのです。サウロはキリストと出会った。
キリストは、ただ「なぜ私を迫害するのか」とだけおっしゃいました。よくもやってくれたなとか、迫害されたキリスト者たちの恨みを思い知れとか、そういうことは一切おっしゃいませんでした。北森嘉蔵という牧師が、もしもキリストがそういうふうに言ったのなら、この場は愁嘆場になっただろう、と言います。愁嘆場というのは、演劇で嘆き悲しむ悲劇の一場面です。サウロは恨み辛みや嘆き悲しみの声ではなく、「なぜ私を迫害するのか」というサウロの「今」を問う言葉を聞きました。そして、キリストはサウロに言われます。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」キリストはサウロに将来を開いてくださった。過去の失敗をほじくり返して責めるのではなく、これからどうやって生きたら良いのかをサウロに知らせてくださったのです。
赦しは、将来を拓きます。イエス・キリスト、「この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」のです。サウロがそうであったように、私たちもキリストと出会い、新しくなることができます。誰にでも、キリストは将来を拓いてくださいます。
しかし、わが身を振り返ると、このような赦しとはほど遠い自分の現実を考えざるをえません。自分の中には恨み辛みが吹き溜まっていて、腐ってしまっている。だからこそ、私たちにはキリストの無限の赦しが必要です。キリストの限りない愛が必要なのです。今日も、このお方の愛の手は私たちに伸ばされています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...