2021年12月13日月曜日

2021年12月13日の聖句

主よ、小さい者たちが辱められることのないようにしてください。(詩編74:21)
エリサベトの隣人や親類は、どんなに大きな慈しみを主が彼女に示されたかを聞き、共に喜んだ。(ルカ1:58)

エリサベトは二つの意味で「小さい者」の一人だったのではないかと思います。一つは、女性であるということ。2000年前のユダヤの社会では、男と女はまったく違う扱いを受けていました。人数を数えるのは男だけ、遺産を受け継ぐ権利も基本的に男だけ。そういうことから始まって、生活のありとあらゆるところに及びます。
もう一つには、彼女には子どもがいませんでした。イザヤ書54:1にはこのような言葉があります。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。」これは主なる神様の呼びかけ、祝福の言葉です。逆説的に、子を産んだことのない人がどれだけ差別され、生きにくかったのかということがよく分かります。世から受けることのなかったすべての報いを、主なる神様御自らが与えようと約束しておられるのです。
エリサベトはザカリアという祭司の妻でした。この夫婦について聖書はこのように言います。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年を取っていた。」今日の旧約聖書では「主よ、小さい者たちが辱められることのないようにしてください」と祈っています。小さい者というのは、社会によって「小さくされている者」です。そして、何らかの烙印を押されて恥を負わされている。「私は恥ずかしい存在だ」と思わされるような呪いを社会にかけられている人々です。
神さまは、エリサベトとザカリアの夫婦に赤ちゃんを与えてくださいました。しかしそれは小さくされていた人が単に大きな人になった、という話ではありません。子供の出産にあたって、ザカリアは口が利けなくなりました。彼自身と神さまとの関わりを問われてのことです。夫妻にとって赤ちゃんが生まれるまでの時間は、静かに神さまの前に祈るときになったはずです。「エリサベトの隣人や親類は、どんなに大きな慈しみを主が彼女に示されたかを聞き、共に喜んだ。」ここに現れたのは、主がいつも関わり、例え他人や自分が恥の烙印を押しても決して慈しむことをやめない神さまの愛です。神さまは、どのようなときにも、あなたに向ける慈しみを変えることも、なくしてしまうこともなさいません。今日もキリストの祝福があなたにありますように。

2024年4月24日の聖句

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