天の神に向かって両手とともに私たちの心を挙げよう。(哀歌3:41)
祈りと願いを止めてはならない。いつも霊によって祈り、そのために目を覚ましていなさい。(エフェソ6:18)
国や文化によって、祈りのスタイルはずいぶんと違うようです。フィリピンの教会では、大きな声で祈っている人が多かったように感じました。アメリカでもブラジルでも、それぞれのスタイルで祈りをささげているのでしょう。私たちは手を組んで、どちらかというとうつむいて祈る人が多いように思います。ところがイスラエルでは、むしろ手を上げて、天を仰いで祈っていたようです。
「天の神に向かって両手とともに私たちの心を挙げよう」。これは、旧約聖書の哀歌の一節です。戦争で祖国が敗れて国が破滅したことを悲しむ祈りの言葉であり、また、そこに至るまで重ね続けた罪を悔い改める祈りの言葉です。そういう祈りの時にも、やはり手を上げて、天を仰いで祈っている。更に、具体的に何を祈っているかが続く次の節に書かれています。「わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。」これも、悔い改めの言葉です。自分たちが重ねた罪の数々がこの破滅を呼び込んでしまった。私たちの罪が神に裁かれた。そのことに深く思いを向け、罪を認め、悔い改めています。更に続く節では、「わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう」と祈ります。主なる神様の御許へ帰ろう、と言うのです。
この祈りを手を上げて祈っていたということは、私たちの感覚とは違うのではないかと思います。むしろ私たちであれば顔を上げられないような祈りです。しかし、はるかに天を仰ぎ、他ならぬ神の憐れみをこいねがって、手を上げて祈る。これもまた真実な祈りではないでしょうか。
「祈りと願いを止めてはならない。いつも霊によって祈り、そのために目を覚ましていなさい。」祈る者として、目を覚ましていなさい聖書は告げます。神の前で祈ること、神に願うことを止めてはならない。それぞれのあり方で、真摯に神の前で注ぎ出す心を、神は必ず憶えてくださっています。
祈りと願いを止めてはならない。いつも霊によって祈り、そのために目を覚ましていなさい。(エフェソ6:18)
国や文化によって、祈りのスタイルはずいぶんと違うようです。フィリピンの教会では、大きな声で祈っている人が多かったように感じました。アメリカでもブラジルでも、それぞれのスタイルで祈りをささげているのでしょう。私たちは手を組んで、どちらかというとうつむいて祈る人が多いように思います。ところがイスラエルでは、むしろ手を上げて、天を仰いで祈っていたようです。
「天の神に向かって両手とともに私たちの心を挙げよう」。これは、旧約聖書の哀歌の一節です。戦争で祖国が敗れて国が破滅したことを悲しむ祈りの言葉であり、また、そこに至るまで重ね続けた罪を悔い改める祈りの言葉です。そういう祈りの時にも、やはり手を上げて、天を仰いで祈っている。更に、具体的に何を祈っているかが続く次の節に書かれています。「わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした。」これも、悔い改めの言葉です。自分たちが重ねた罪の数々がこの破滅を呼び込んでしまった。私たちの罪が神に裁かれた。そのことに深く思いを向け、罪を認め、悔い改めています。更に続く節では、「わたしたちは自らの道を探し求めて、主に立ち帰ろう」と祈ります。主なる神様の御許へ帰ろう、と言うのです。
この祈りを手を上げて祈っていたということは、私たちの感覚とは違うのではないかと思います。むしろ私たちであれば顔を上げられないような祈りです。しかし、はるかに天を仰ぎ、他ならぬ神の憐れみをこいねがって、手を上げて祈る。これもまた真実な祈りではないでしょうか。
「祈りと願いを止めてはならない。いつも霊によって祈り、そのために目を覚ましていなさい。」祈る者として、目を覚ましていなさい聖書は告げます。神の前で祈ること、神に願うことを止めてはならない。それぞれのあり方で、真摯に神の前で注ぎ出す心を、神は必ず憶えてくださっています。