2021年12月31日金曜日

2021年12月31日の聖句

民はモーセのもとに来て言った「私たちは主とあなたに抗して語り、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。(民数記21:7)
疑いを抱く人たちを憐れみなさい。(ユダ22)

モーセに導かれてエジプトを出て、荒れ野の旅を始めたイスラエルの人々。彼らはたびたび不平不満のとりこになりました。彼らの様子を聖書はこのように記録しています。「民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。』」それで、主なる神様は民の中に炎の蛇を送り込み、蛇は民を咬み、多くの人が死んでしまいました。神に裁かれた。それで、民はモーセに願いでました。「私たちは主とあなたに抗して語り、罪を犯しました。私たちから蛇を取り去ってくださるように、主に祈ってください」。それで、モーセは民のために祈り、神はその祈りを聞きかなえて、この災いは止みました。
もしもモーセが民の叫びを聞いて、私とあなたたちとどちらが正しいのかはっきりさせようと言い出したら、民には救いがありません。モーセが正しいし、まして神が正しいのは明らかです。そもそも民はエジプトで奴隷であり、助けてくださいと祈ってきたのです。それに応えて神がモーセを遣わし、ファラオは絶対解放しないと言っていたのに数々の奇跡でエジプトを出て晴れて自由になったばかり。それなのに、民は「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか」と言ってのける。あまりに自己中心的ですし、依存的で、自立的に生きていこうという精神のかけらもないことが窺われます。「正しさ」をモーセが一番大切に考えていたとしたら、民はもうどうしようもありません。
ところがモーセは正しさよりも憐れみを大事にしました。「疑いを抱く人たちを憐れみなさい」と新約聖書が教えるとおり、正しさを軽んじ、疑いに心が支配され、理不尽なことを口にしたり不平不満の虜になっている人々を前にして、聖書は、正しさよりも憐れみを求めるのです。神は正しくない者を、正しくないという理由で捨てないのです。正しくない者を憐れんでくださるのです。
だから、私も憐れんで頂きました。だから、私も憐れみの人になるようにと聖書は招きます。私たちはキリストのものです。私たちはキリストの憐れみの中に生かされています。私たちはキリストの憐れみによって、新しくして頂いたのです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...