2021年12月9日木曜日

2021年12月9日の聖句

主の日は大いなる日で恐怖に満ちている、誰がこの日を耐えることができようか。しかし、今からでも、と主は言われる、心を尽くして私に立ち帰れ。(ヨエル2:11~12)
主を待ち望んでいる人のようでありなさい。(ルカ12:36)

今、教会はアドベントの季節を過ごしています。「アドベント」という言葉はラテン語で「到来」という意味です。アドベントは到来を待ち望む季節。もちろん、主イエス・キリストの到来です。2000年前にベツレヘムでお生まれになった主イエス様。私たちのために救い主がお生まれになった。この方は、十字架にかけられて復活し、天に昇り、神の右におられますが、やがて再び私たちのところに来ると約束してくださいました。アドベントは、私たちがキリストが再び到来なさるのを待ち望んでいることを新しい思いをもって確認する季節です。
「主を待ち望んでいる人のようでありなさい」。私たちは、主を待ち望む人として、この世で生きていきます。主を待ち望む備えをすることが、私たちの今生きる意味なのです。主が到来するその日を目指して、私たちは生きています。しかしこの主が再び来られる日は恐怖の日だ、と御言葉は告げています。「主の日は大いなる日で恐怖に満ちている」。なぜなら、その日は裁きの日だからです。私の生き方が問われ、私のしてきたことが神さまの前に問われる日、裁かれる日。そう言われて、堂々としていられる人などいないのではないでしょうか。恐ろしいことです。事実、聖書自身が「誰がこの日を耐えることができようか」と言うのです。
「しかし、今からでも、と主は言われる、心を尽くして私に立ち帰れ。」この御言葉を読んで私の心に残ったのは、「心を尽くして私に立ち帰れ」の「私に」という言葉です。神さまが御自ら私たちに呼びかけておられます。この私に立ち帰れ、と。一般的に言って悔い改めた方が良い、恐ろしい裁きがある、と言っているのではありません。神さまが御自ら私たちを呼んでくださっています。「私に立ち帰れ」と。私のところへ帰ってこい、私の愛の中へ戻ってこい。主の日は、誰にも耐えられない恐ろしい日です。自分の一生を率直に問われたら、しかも神さまの目からご覧になって私の知らない私の姿を問われたら、一体誰が顔を上げられるでしょう。判決は死刑、地獄に永久追放されるしかない。しかし神さまは言われます。「私に立ち帰れ。」悔い改めは、神さまに立ち帰ることです。神さまの愛の中に戻ることです。私たちの不利になる罪状書きはキリストと一緒に十字架に打ち付けられてしまいました。死ぬべき者を生かし、赦しようのない者と和解し、神さまは私たちを迎えてくださいます。主の日は裁きの日。しかし大いなる赦しの日。キリストにあって私たちが神さまの元に完全に迎え入れられる日です。私たちはこの日を待ち望んでいます。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...