2022年1月16日日曜日

2022年1月16日の聖句

主とその力を求めよ。常にその顔を求めよ。(詩編105:4)
求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。(ルカ11:10)

私は今日の御言葉を思い巡らして、主イエスさまのお姿を想いました。病人を癒やしてくださった主イエスさま。数々の奇跡を行われた主イエスさま。しかし、ゲツセマネの園で血の滴りのような汗を流しながら、主イエスさまはこう祈ります。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」もう数時間後には逮捕されて、十字架にかけられてしまいます。この杯を、私から取りのけてくださいと神さまに祈る主イエスさま。あなたは何でもおできになりますと誰よりも深く知っておられる方が、神さまの前で祈っておられるのです。
主とその力を求めよ、と今日私たちに与えられている詩編は言っています。私たちの周りには、神さまが力をふるって解決してくださることを待ち望む課題がたくさんあります。神さまはどうして助けてくださらないのか、と考えざるをえないこともたくさんあります。私たちには途方に暮れたり、どうにもならない出来事の中で絶望することだって、少なからずあるのではないでしょうか。
今日の詩編の御言葉は、このように言っています。「主とその力を求めよ。常にその顔を求めよ。」ここで、主の力を求める祈りは、主ご自身を求めること、そして主の御顔を求めることと、一つのこととされています。主ご自身、主の御顔とは関係のない主の力というのは、存在しないのです。
主イエスは、ゲツセマネでこのように言っておられます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」ここには、絶対的な神さまへの信頼があります。主イエスさまの、神さまに向かう信頼は揺るがないのです。神さまは、その全能の力を、私たちを救うことに注ぎ込んでくださいました。何でもできる方が、罪人たちが主イエスを十字架にかけることをおゆるしになったのです。神さまの御力は、神様ご自身、そして神さまの御顔と別のものではありません。主なる神様の独り子をお与えになるほどの私たちへの愛に、神さまの全能の力が注ぎ込まれています。だから、今私たちには理解できないことがたくさんありますが、神さまの力を信頼しましょう。私たちを罪から救うことにすべての力を注ぎ込んでくださった方を信頼して、主を求めて生きていきましょう。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...