主よ、私の唇を開いて、私の口にあなたの誉れを告げ知らせてください。(詩編51:17)
私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えます。(1ヨハネ1:3)
普段私の唇に載っている言葉は一体どういう言葉なのだろうとフト考えると、恐ろしなります。自分のしゃべった言葉は自分の耳にも届いているはずですし、しかも無意識ではなく何かを考えながらしゃべっているはずです。ところがあまり自分ではよく分かっていないように思います。自分がどういう顔をしているのか、写真で見せられると思っていたのと違う。録音した声を聞いてみると、自分の声だと思っていたものと違う。そういう自己イメージと客観的な姿のズレはよく起こりますが、自分の言葉についても、恐るべきズレが起こりがちではないでしょうか。朝から晩まで、自分の口から出る言葉をすべて記録してそれを突きつけられたら・・・そう考えると、本当に恐ろしいと思います。
私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えます。(1ヨハネ1:3)
普段私の唇に載っている言葉は一体どういう言葉なのだろうとフト考えると、恐ろしなります。自分のしゃべった言葉は自分の耳にも届いているはずですし、しかも無意識ではなく何かを考えながらしゃべっているはずです。ところがあまり自分ではよく分かっていないように思います。自分がどういう顔をしているのか、写真で見せられると思っていたのと違う。録音した声を聞いてみると、自分の声だと思っていたものと違う。そういう自己イメージと客観的な姿のズレはよく起こりますが、自分の言葉についても、恐るべきズレが起こりがちではないでしょうか。朝から晩まで、自分の口から出る言葉をすべて記録してそれを突きつけられたら・・・そう考えると、本当に恐ろしいと思います。
「主よ、私の唇を開いて、私の口にあなたの誉れを告げ知らせてください。」そんな私たちの口に、主なる神様の誉れを告げ知らせる言葉が上ってくるとしたら、それは神さまが起こしてくださる奇跡です。私の口が良い言葉で溢れ、神さまを誉めたたえる言葉で満ちるのなら、それは神さまが私に起こしてくださったすばらしい恵みの業です。
「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えます。」今日の新約聖書の御言葉は「命の言」、すなわちイエス・キリストを伝えますという使徒ヨハネの宣言です。私たちの口に上る究極の良き言葉は、命の言、イエス・キリストの福音です。この喜びの知らせを、神さまが私たちの口に授けてくださる。それが私たちの信仰です。
今日、私たちが誰かと出会うとき、何かを語り合うとき、そこにイエス・キリストが共にいてくださいますように。そして私たちがキリストの福音を証しし、私のこの口にも、神がキリストの良き言葉を上らせてくださいますように。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。「地」にも。「地」に生きるこの私の唇においても!
私たちは祈りつつ、今日一日の歩みへと出発していきます。
「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えます。」今日の新約聖書の御言葉は「命の言」、すなわちイエス・キリストを伝えますという使徒ヨハネの宣言です。私たちの口に上る究極の良き言葉は、命の言、イエス・キリストの福音です。この喜びの知らせを、神さまが私たちの口に授けてくださる。それが私たちの信仰です。
今日、私たちが誰かと出会うとき、何かを語り合うとき、そこにイエス・キリストが共にいてくださいますように。そして私たちがキリストの福音を証しし、私のこの口にも、神がキリストの良き言葉を上らせてくださいますように。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。「地」にも。「地」に生きるこの私の唇においても!
私たちは祈りつつ、今日一日の歩みへと出発していきます。